12.豪雨が去って地は固まったか
「何をしているの、華月?」
中嗣の声はいつものように優しいものだったが、華月にはそのように伝わらなかった。
「どうしてここに!」
叫ぶように言った華月は、両手のひらで床を押して勢い立ち上がると、側にいた羅生の背中に回り込み、身を屈めて隠れようとした。
華月の手を掴んでいた男の手が払い除けられた形となって安堵しつつ、中嗣は急ぎこの場をどう鎮めるかと考えたいのだが、目の前の光景が中嗣から冷静さを奪っていく。
羅生は急ぎ立ち上がって、背にいる華月から逃れようとした。そうすると、華月まで立ち上がり、背中から羅生の衣装にしがみ付いたのだ。
「待て、待て、俺に隠れるな。この場がややこしくなろう」
「だって、羅生。急に中嗣が!」
「華月、こら!離れろって!今宵も飲み過ぎだぞ!」
「今日はまだそんなに飲んでいないよ」
「嘘を言うな。お前の飲み方はおかしいと再三言って……」
こういうときに涼やかな笑顔が張り付くのは、やはり癖なのだ。
にこりと笑う男の心中は、顔と真逆に荒れ狂っていた。
俺と言ったか?華月と呼んだな?それにお前だって?
華月も羅生とそのままに呼んでいなかったか?
そのように親しい仲とは聞いていないよ、華月?
それよりもだ!
何故触れ合っている?じゃれ合うな。
いつも陽気な羅生の顔が、ここまで色を失うことはないだろう。額には薄っすらと汗が浮かんでいたから、中嗣の心の声が届いたらしい。
その心の声は、外には一切出ていないはずなのだが。
「酒の席の戯言ですぞ、中嗣様。ご想像のようなことは何ひとつありません」
羅生の声は上擦っていた。
側で音を立てないようにしてその場を離れようとする体の大きな男が一人。
「待ってよ、宗葉。逃げないで。この場をどうにかして!」
華月に言われて、びくりと肩を揺らし、男は動きを止めた。
宗葉よ、お前もか。
中嗣は一段と張り付けた笑みを深くして、羅生と宗葉を順に見た。
「いつの間にやら、華月と仲良くなっていたようで。敬称も無くす深い仲とは露知らず。私が昼間に部下から聞いた言葉は何だったのかな?」
華月が羅生の後ろからそろりと顔を出すと、見る間に中嗣の笑顔の質が変わった。
中嗣の目には、もはや羅生や宗葉が映らない。
心配そうに様子を窺う顔にあるのは不安だけで、いつも大袈裟に示している不快さがない。随分と酔っている。
しかし可愛いな。不安はすぐに解消しよう。それから今度こそ……。
中嗣のいい気分が突然中断された。一人置いてきた部下のせいだ。
駆け込んだ勢いで滑るように羅生の後ろに回り込むと、利雪は正座をして、華月に向かい美しく微笑んだ。
「華月殿。私ともそのような気安い仲になりましょう」
「無礼だと怒らない?」
「もちろん。さぁ、私のことは利雪とそのままにお呼びください」
「それなら私も華月でいいよ」
「では華月。今度、利雪とそのままに書いていただけますか?」
「いいよ、利雪。名前くらい、いくらでも書いてあげる」
「いくらでも!それは素晴らしい!」
心底呆れると言葉が出ないものである。
利雪は賢い中嗣にも難敵だった。中嗣がこれまで培ってきた官対策の話術など、どれも通じないのだから。
まったく、部下たちは普段からこのように仲良くやっていたわけだ。人の気苦労も知らないで……いや、彼らに私の気苦労などは関係ないか。そうは言っても、仲良くする前に一言伝えてくれても良かったのではないか。私は華月の何かという話にもなるが……部下の対応は後回しだな。
中嗣は最も大事なことに意識を戻した。
華月をどうにかしなければ。
このままではせっかくの楽しい時間を私のせいで終わらせてしまう。
利雪と話していた華月が、再び羅生の後ろから顔を出して、様子を窺うように中嗣を見ていた。
その仕草は可愛らしいと素直に思ったが、それが羅生の後ろで行われているという点が、中嗣にはとても不満だ。
何故、私の後ろに隠れない?いや、待て。後ろに隠れている様を、私は見られないのではないか?
いやいや、そうではない。何故、羅生の体には容易く触れる?
そうだ。男に簡単に触れてはいけないときつく言い聞かせないと。そうだった。まずは男に手を握らせるなど……待て。ここでそれを言うと、ますます不安にさせるだけだ。
落ち着こう。
中嗣は一呼吸置いて、華月に優しく笑い掛ける。もちろん宮中でいつもするそれとは違う顔で笑った。
「華月、急に来てしまって驚かせたね。楽しいところに悪かったよ。謝らせてくれるかな?」
謝られるとは思っていなかったようで。
華月は目を丸くしたあと、また窺うように中嗣の顔をまじまじと眺めた。
「怒っていないの?」
「私が君を怒ることなどないよ」
「嘘ばっかり」
「本当だよ。私がいつもあれこれ言ってしまうのは、君を心配しているだけだからね」
「そうだったの?それなら、この間のことも怒っていない?」
「今までに華月に怒るようなことは何ひとつなかったけれど、この間とはいつのことかな?」
中嗣が惚けて首を捻ると、華月に笑顔が戻った。
やはり酔っているようで、普段より肌が上気している。
白い肌はほんのりと紅く染まり、熟れた桃のようで。これに触れたいと願う中嗣の顔が一層緩んだ。
「怒っていないなら、一緒に飲もう」
自分から誘うつもりだった中嗣は、それでも何度かは断られると覚悟していたために、不覚にも驚いてしまった。
そんな驚きで固まる中嗣の前に、羅生の後ろから飛び出してきた華月が近付いて来る。
袖を引かれたときには、手を掴んで抱き込みそうになった。中嗣はよくぞ何もしなかったと自分を褒めて、華月に促されるままに隣に並び座る。
中嗣の目に華月しか映らなくなったが、当然周りには変わらず男たちがいて、羅生と宗葉は呆れるより前に難を逃れてほっとしていた。利雪は……綺麗な顔で微笑して側に腰を下ろした。さすがだ。
「ほら、見て、中嗣。これは私が作ったんだよ」
視界に入れていなかった男が、まだその場にいたことに気付いた中嗣は、舌打ちしたい気持ちを隠して、華月に微笑んだ。
華月が嬉しそうに、男の広げた箱から一枚の布を取り出して、中嗣の前で広げて見せる。その布は風呂敷のようで、正方形に縫われていた。
「華月が裁縫を?」
「違うよ。縫ったのは、蒼錬殿のお店の方でね。私はこれを染めたの」
染物屋か。そういえば、華月はかつて染物に関する書を楽しんでいた時期があったな。
男を分析しながら、記憶の中の華月を愛で、華月が見せびらかす布を眺めた。
藍の布地には、白い朝顔のような円形の模様が不規則に並んでいる。中嗣もこういった文様を見るのは初めてだ。
「華月殿が作ったものですから、是非お持ち帰りください」
「貰う理由がありません」
「こちらは試作品ですし、お礼には満たないものです。受け取って頂けなければ、捨てるようなもの。共に遊んだ証にどうか受け取っていただけませんか?」
「捨ててしまうの?それなら有難く……」
中嗣に浮かぶ不穏な思考を止めるのは、やはり華月だ。
華月はその布を中嗣に差し出した。
「もしかして、私に?」
「そう。貰って。これのお礼だよ」
華月が腰帯に揺れる飾りを指でついた。
これで中嗣が感激しないでいられるはずはないだろう。
周りには、貰い物をその場で他人に贈るのはどうなのだ?しかも贈った相手が見ている前でだぞ、と思っている男が数名いたが、中嗣には何も気にならない。
「嬉しいよ、華月。こんなに美しいものをありがとう」
「美しく見えた?」
「あぁ。美しいよ。これほどいいものを見たことがない」
「それは言い過ぎだよ」
笑う華月の隣で、布を綺麗に折りたたむと、中嗣はそれを懐に仕舞った。
笑い終えた華月がこの布の事情を説明してくれる。
「蒼錬殿はね、染物屋を辞めようとしていたの。それでどうせ辞めるなら、その道具で遊ばせて貰えないかという話をしていてね」
もしやと思い中嗣が羅生を見やると、羅生は無言で頷いた。
いつの間にか、羅生たちもそれぞれ近くに腰を下ろし、華月の話を聞いている。
華月が中嗣から隠れようとして一時離れることになっていた遊女も、また華月の腕に絡まっていた。その遊女が華月を越えて時折睨んで来るので、中嗣はなるべく目が合わないように気を付けている。
「絞り染めを覚えている?それを試したんだよ。あの柄は……あれ?仕舞ってしまったの?」
「あぁ、うん。物を見ながら説明したかったね」
中嗣は一度仕舞った布を取り出して、華月に見やすいように膝の上で広げてやった。
すぐに華月はそれは楽しそうに、中嗣に染め方を説明していく。
「ここをこう、紐で縛ってね。縛り方によって、出来上がりの形が変わってくるから面白くて。そうそう、染料も奥が深くてね……」
うんうん、これからは妓楼屋に通ってもいいな。
羅賢殿もいないし、下手に勘繰られるようなことはないだろう。
しかし、これほど可愛く話す華月など。いくらでも聞いていたいが、誰にも聞かせたくないな。いっそ、共に暮らしてしまえば、毎夜でも共に酒を飲み……
解説に夢中な華月の言葉をすべて聞き、素晴らしい配慮で相槌を打ち、しかも華月を喜ばせる言葉を重ねているのに、頭の中はこれである。こういう器用さがあるから、中嗣は若くして三位の文官に収まることが出来たのだが、ある特定の部分では不器用で残念な男になるのだった。
「それほど楽しかったのであれば、また是非共に染物を楽しみませんか?」
要らぬ男の声が耳に入り、中嗣はいよいよこの男をどうやってこの場から立ち去らせるか思案していたのだが。
「それなら今度は中嗣も連れて行っていいですか?」
一瞬驚いたあとで、中嗣の顔にいつもの涼やかな笑顔が張り付けられると、何故か傍らで宗葉が顔色を悪くした。宗葉は中嗣の部下になってからの短い期間に、この笑顔に恐怖を覚えるようになってしまったらしい。先ほど宗葉に向けられたあの笑顔も悪かった。
「東国の独特な染色手法に関しては、私も以前から興味がありましてね。関連する書をいくつか読んできました。あぁ、その書を彼女に譲ったのも私でして。このような機会は珍しいものですし、お許しいただけるのであれば、私も是非ご一緒したい」
「はぁ……では華月殿とご一緒にどうぞ」
要らぬ情報を織り交ぜて願うと、蒼錬は渋々と同意した。蒼錬が官の願いを断れる立場にないことを中嗣はよく分かったうえで言っている。完全なる権力による脅しだ。
「中嗣はとても賢いから、きっといい案が生まれますよ、蒼錬殿」
華月が楽しそうに何故か中嗣を見ながら言うと、蒼錬は明らかな作り笑いで「それは楽しみですね」と言った。
はて、何か面倒なことに巻き込まれているのかもしれない。けれども、華月が願うならば、私は率先してこれに関わろう。
「楽しみだね、中嗣」
花の蜜に誘われるようにして、中嗣の手が華月の頭に乗った。
珍しいことに華月は嫌がらず、中嗣は驚いたあとに、これでもかと華月の頭を撫でていく。
華月は目を細めると、くすぐったそうに笑うから、今宵は相当に酔っているのだ。
蒼錬が肩を落としているのを横目で見やり、中嗣はほくそ笑む。すこぶる気分が良かった。
愛しい娘の頭を撫でて、よく知らぬ男に勝利宣言。自分でも小さき男だと思おうと、溢れる喜びは止まらない。
懐かしい老人よ、あの頃のように好きに笑ってくれ。中嗣は人知れず願った。