11.気遣いの方向がおかしいです
溜まる仕事を置いて、宮中の南門から外に向かう。
中嗣が瑠璃川の東岸に渡るのは久しぶりだった。南大橋を渡るときなど、感慨深く夕日に染まる川面を眺めてしまったくらいだ。
羅の家が燃えた後処理で、一度利雪らを連れて足を運んだ日を思い出す。あのときは川面を見る余裕もなかったが、今は違う。
羅生らの足取りに迷いがない。
迎えた逢天楼の番頭は、宗葉や羅生をよく知っているようで、常連客のように扱った。
彼らは普段、どれだけ通っているのだろう。訝しく二人を眺めながら、そういえば、以前は中年の男が番頭をしていたが、いつの間にか若い男に変わっていたのだな、と中嗣は気付く。前回来たときは老婆にしか会わなかったが、不在だったのだろうか。
通された逢天楼の一階の大広間には、何やら人だかりが出来ていた。
様々な身なりの男たちが中腰になって、何かを囲んでいるのだ。
中嗣の胸には、すでに嫌な予感がひしひしと満ちている。
「参りました」
集団から、どよめきが起こった。続くのは、拍手喝采。
「静かに。勝者からの一言を!」
大広間が、しんと静まり返る。素直な男たちばかりいるようだ。
妓楼屋だよな、ここ?
中嗣は疑いを持って、遠目から集団を眺めた。
羅生たちも座ろうとせず、中嗣の側で立ったままこの集団を眺めている。
見えた。
集団の隙間から、知った娘の頭がかろうじて見える。立ち上がったのだ。
「今宵も素晴らしい勝負でした。では、有難く頂きます!」
仁王立ちのまま、瓢箪をぐいっと傾けると、そのまま口を付けて、ごくごくと飲み始めた。まるで周りに見せつけるかのように。
幾度も喉を鳴らした様子で、しばらくそのままの姿勢が続き。やがて、ぷはぁっという気持ちのいい音を吐き出しながら、華月は瓢箪から口を離した。最後には唇を親指で拭いながら、「あぁ、美味しい」と漏らす。
「さすが、華月!美味い酒が掛かると違うなぁ」
「よ!いい飲みっぷり!!」
集団のあちこちから掛かる声に、手を上げて答えている。
小柄だから男たちが動くとまた姿が見えなくなった。
中嗣の瞳は時折隙間から見える華月を追う。
誰かが彼女の背中を叩いているのが見えた。彼女もまた誰かの肩に手を乗せている。
触るな。触らせるな。
叫びたくなったが、しばし観賞に徹しよう。場の雰囲気を悪くするほどの考えなしではないと思いたい。自制心を忘れるな。
中嗣は視線で華月を追うのを辞めて、辺りを見渡した。どこに座るか、という迷いだ。
けれども耳に届く声が、どうしても華月に意識を戻す。
「勝負の後は、なお美味しいね」
見なくても、また飲んでいるだろうと分かる。
いくら何でも飲み過ぎだろう?拍子が早過ぎやしないか?
伝えたいが、また嫌そうに顔を歪められてしまうのは避けたい。
「まだ行くか?」「もう一勝負どうだ!」という声の後、「辞めておくよ。次の人、どうぞ」という華月の大きな声が抜けて。
しばらくすると、華月が人だかりからすーっと出てきて、中庭に面した広縁に腰を下ろした。
彼女の定位置なのだろう。羅生と二人で飲んでいたのも、あの場所だ。
まだ華月は中嗣たちに気付いていない。背中を見せているから、こちらから声を掛けなければ、気が付かないだろう。女の声だからこの場で目立つが、広間に居るのは男ばかり。向こうがこちらの声に気付くとは思えない。
一人の遊女が可憐な歩みで華月に歩み寄った。
隣に座ると、自然な流れで華月の腕に寄り添う。
体を寄せ合い、耳元で囁き合う様は、どうにも恋慕の熱気が漂い、私が嫌われているのは、このせいだったりしないよな?と中嗣はさらに自信を失った……そもそも失うものを持っていたかどうかは怪しい。
「中嗣様。一番悪い時でしたな」と羅生が言うと、「そうですとも。ほら、いつもあの辺で書を読んでいるだけですから」と宗葉が重ねる。
いつも見て来ているわけだ。あとで何と嫌味を言ってやろうか。遊べないほど仕事を増やしてやるか。というように、中嗣は不穏なことを考えつつ、部下の言葉に何も返さず歩き出した。
壁際に移動すると、壁を背もたれにして、座り始める。
これには、部下たちが揃ってぎょっとした顔を見せた。
「声を掛けないんですか?」
「せっかく楽しんでいるのに、悪いだろう?」
だからと言って、こっそりと見ているのもどうなのか。部下たちはそう思っていたに違いない。余程趣味が悪いぞと、三名の顔に書いてあった。
だが、知らん。中嗣はすっかり不貞腐れていた。声も掛けず、おかしいとは思うが、とても楽しくない。
「では、私はいつものように会って来ますよ?」
羅生は意地悪く笑うと、中嗣の許可を待たずに、いくらかの人の山を抜けて、華月の元へ歩み寄った。
あの男、本当に嫌らしい。
中嗣の視線が華月へと向かう。
突然現れた羅生に対しても、華月は楽しそうに笑い掛けた。あんな男とも仲良くやっているらしい。
「中嗣様、本当に宜しいのですか?我らも行ってしまいますよ?」
「嫌な気分にはさせたくないからね」
中嗣はどれだけ嫌がられても会いに行くと決めていた。この決意が揺らいだことはない。
けれども今宵のように、他の者らと楽しく語り合っている様を見せ付けられた後に、自分の存在だけを嫌がられるというのは、辛いものがある。耐えられそうにないから、中嗣は逃げた。
宗葉は困った上司に呆れた顔を向けつつ、「では失礼ながら……」と申し訳なさそうな声で言ったくせに、足取り軽く華月の方に向かった。目当ては華月に会いに来る遊女たちだろう。
中嗣は今宵、一人で飲むつもりだった。
ところが利雪は美しい微笑を浮かべ、そのまま中嗣の側に腰を下ろしたのである。
「君もあちらで飲みたいのではないか?好きにして構わないよ」
「今日は筆を見られそうにないので、中嗣様にお付き合いいたします」
「君は本当に……あの子の文字が好きだな」
中嗣はどれほど自分を諫めようと、瞳の端で華月を追い掛ける。
後ろから見ても、くるくると変わる表情が想像出来た。時折見える横顔はこの想像通りで、中嗣は喜んでしまう。
手を合わせて大きく笑ったかと思えば、横の遊女と囁き合って、また喜んで。真剣な顔になったと思えば、今度はお腹を抱えて笑っている。
楽しんでいるなら、嬉しい。
けれども、素直に喜べないのだから、器の小さな男だと中嗣は自分でも思う。
己の未熟さを憂いながら、亡くなった老賢人の言葉をひっそりと噛み締めた。確かに半人前ですよ、と目の前で悪態を付くくらいのことを、させてくれても良かったのではないか。
今日は見ているだけにしよう。
と決意したのも束の間、どうにも我慢ならない自体が起きた。
男が華月の側に歩み寄り、何やら持ってきた箱を開けて見せたのだ。
それはいい。まだ、それは許す。
そこで華月が興味深そうにその箱を覗き込むから、男に近付く姿勢となった。
これもまだ許そう。
問題は、男がのぞき込む華月の手を取ったことにある。
感情的な勢いというのは恐ろしいものだと、中嗣はあとで反省するのだった。
気が付けば立ち上がって歩み寄り、いや走り寄り、「何をしているの、華月?」と語り掛けていたのだから。
いずれ声を掛けるにしても、こんな形のはずではなかったのに。
失敗したと気付いたときには、青白い顔で中嗣を見上げる華月と目が合っていた。