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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第二章 わかつもの
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10.親しき仲でもないのですが


 紅玉御殿の一室に、前はなかった文机が並ぶようになった。三位文官の中嗣がついに特定の部下を持ったからだ。

 しかし不思議なことには、医官である羅生が当然の如くひとつの文机を独占していた。しかも彼は口を閉じることを知らず、その部屋には前はなかった人の声も絶えず聞こえるようになったのである。時には羅生一人の声しか聞こえないこともあって、文官たちからは種々の理由で恐れられていた。


「中嗣様は、妓楼屋には行かれませんよね?どうしてです?」

「ちょうど良かった羅生。この書類、黄玉御殿に返してきてくれないか」

「それは後ほどまとめてお預かりしましょう。それでどうしてです?」


 羅生には怖いものがないのか。

 これまでの恵まれた環境が影響しているのかもしれないが、偉大な権力を持っていた祖父は亡くなり、羅の家はほとんど消滅したも同然の状態でのこの態度、中嗣は叱責しながらも、半分は感心していた。

 しかも彼は急遽訪れた苦境に開き直っているわけではないようで、あの件の前後で様子を変えていないと言う。肝が据わっているのか、それとも考えが浅いのか。


「元から好まない場所でね」

「華月殿が居ても好まないと?」

「……見たくもないものを見そうだからね」


 こうは言ったものの、実は中嗣には妓楼屋を避ける理由が別にあった。

 脳裏に浮かんだとても嫌なものを払うように、中嗣は少し首を振って、目の前の書類に集中する。


 ところがそんな中嗣の心情を知らないはずの宗葉が、「あぁ、確かに」と同意を示したのだ。自然、中嗣の眉が不愉快さを示すために、ぴくりと上がった。

 宗葉は己の身の危険には敏感だ。


「違いますぞ。そうだろうなと思っただけです」

「ほぅ。まるで見て来たような顔で頷いていたように見えたが?」

「そんなことは。私は何も知りませんぞ。常から華月殿と付き合いがあるのは、利雪くらいなものでしょう」


 巻き込まれた形の利雪は、書類から顔を上げて美しく微笑んだ。これが中嗣の毒気を抜いてしまう。


「えぇ。先日も素晴らしい写本を頂いて参りました。新たなお願いもしてきましたので、出来上がるときが楽しみです」

「写本と言えば、中嗣様。近頃仕事の進み具合がよろしくないようですが、何か聞いておりますかな?」


 ぎろっと睨んだところで、羅生はへらへらと嫌味な笑みを返すだけだ。

 中嗣は酷い顔のまま「何を知っている?」と低い声で問うも、羅生相手には何の効果もない。


「たまたま玉翠殿にお会いしただけですぞ。何やら新しい遊び相手が出来たそうで」

「遊び相手だと?」

「おや、知らないとは。これは一人前への道は険しそうですなぁ」

「うるさい。余計なことはいいから、要件だけを端的に話せ」

「それでは黙りましょう。すべて戯言です」


 中嗣から舌打ちが漏れた。

 他の官が聞いていたら耳を疑うはずだが、この部屋でそれをする者はいない。


「昼間は忙しく遊んでいるようで、近頃は妓楼屋にもなかなか来ないそうでしてな。夜に仕事をしているのでしょう」


 黙ると言っておきながら、羅生の方から口を開く。この男は口から先に生まれたに違いない、と中嗣は思った。


「ですから中嗣様。今宵は妓楼屋へ参りましょう」

「……分かるように説明してくれないか?」

「今宵はいい会がありましてな。ここに来ないとなると問題です」

「だから分かるように」

「分かりましょう。中嗣様なら。来ないことで心配されるなら、どうするか」


 一度息を吐いてから、中嗣は聞いた。


「今宵、何がある?」

「それは行ってからのお楽しみですぞ」

「なんと。今宵は逢天楼ですか?」

「華月殿がおられるのなら、私もご一緒したいです」

「それはいいな。全員で行くのも面白い」


 羅生に文句を並べる前に、宗葉と利雪が盛り上がる。

 何故だ。何故こんな部下を取ってしまったのだ。

 中嗣は新たな書類を取りながら、また長く息を吐いた。


「では今宵は逢天楼に行くということで決まりですな」

「仕事が終わるなら構わないけれどね」

「おぉ、それは頑張らねば。本気でも出しましょうか」

「えぇ、頑張りましょう」

「いつも本気で頼むよ。ところで利雪。君は遊女たちと飲めるのか?」

「華月殿がおられれば平気だと分かりました」

「利雪も平気ですし。是非個室で遊女とのお戯れを!」


 中嗣の氷付いたような瞳に射抜かれ、調子に乗っていた宗葉から血の気が引いた。


「馳走するとは言っていないからね」

「中嗣様。斯様なお立場にあっては、見苦しいですぞ。一人前になるためにも、部下を労わる広い心を育ててくだされ」

「そうすると、羅生は私の部下ではないから、君には今後も一切馳走せずとも良いわけだ」

「これはなんという言い草。私が斯様に中嗣様と医官の橋渡し役を務めているというのに」

「そうか。ではこちらの書類をすべて黄玉御殿に返して、なんとかしてきたまえ」

「……ははは。それは後日で」


 中嗣はいよいよため息を吐いて、無礼な部下たちの存在を忘れるべく、愛しい顔を思い浮かべた。

 羅賢を亡くしてから心配でならず、なるべく構おうとしているが、拒絶が続くと中嗣とて心が折れそうになる。

 酔った華月に偶然出会って送っていったあの夜のあと、何度か写本屋に足を運んだが、毎度裏口から逃げられた。確実に避けられている。

 それほど会いたくないのだろうか。

 それでも私は――


 羅生の声を無視し、中嗣は今度こそ書類に集中した。

 今宵本当に会えるならば、嬉しい。



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