5.残念な男とは言わないで
二人は例年通り、瑠璃川の西岸側を歩くことにした。
瑠璃川の東西の河原は、祭りのときに最も出店が集まる場所である。
少しの雲が出て来たが、青空を隠すほどではなく、河原にはほとんど日差しを遮るものがない。
中嗣が宮中を出たときよりも気温はぐんと上がっていた。
もう少ししたら羽織を脱がせて持ってやろうと、中嗣の頭の中は先のことばかり追いかける。
されど、目的は書だ。二人は手を繋いだままに、小石の並ぶ河原を歩き、書の出店が集まる場所を目指していた。
その歩みが一度止まる。
「変な風に触らないで」
「ごめん、もうしないから」
中嗣の謝罪は瞬きよりも早かった。
中嗣が何をしたかというと、華月の指にある筆だこを自身の指の腹で撫でたのだ。
そうそうと手を繋いで貰えないのだから、余計なことなどしなければいいのに、懲りない男である。
「次にしたら手を離すからね」
「もうしないよ。だからこのままでね」
我慢だ。我慢。
手を繋いでいるためだ。
と己を律し、また歩みを進める。
小石が並ぶ河原では華月の歩みは一層遅くなった。いつも写本ばかりしているからだと言って華月は笑うが、中嗣は心配でたまらず、抱えて運んでしまいたい衝動に駆られる。その衝動に耐えるには手を繋いでいる必要があって……ただの戯言だ。
「華月殿!」
誰だ、私の素晴らしい時間の邪魔をする男は?
という心の内で発せられた中嗣の叫び声など誰にも聞こえるわけはないが、聞こえない方が誰のためにも良かっただろう。
中嗣は気迫を込めて声の方を振り返った。
中嗣と同じか、少し上といったところの齢の男が、人を避けながら近付いてくる。風貌は商人のそれだ。どこかの商屋の若旦那か、店を任されている立場の者だろうと中嗣はすぐさま分析した。
「これは蒼錬殿。偶然ですね。お仕事ですか?」
華月はそう言って、軽く頭を下げた。手を離そうとしていたが、中嗣がこれを許さなかったので、なんとも中途半端な礼になっている。
「いえ、祭りを見ようと、店を任せて出て来たところです。あなたも……」
ようやく男が中嗣の存在に気が付き、言葉を止めた。
その瞬間、男が明らかに顔付きを変えたから、中嗣も負けてはいられまいと、ますます繋いだ手を強く握り締めて、華月に怪訝な顔をさせている。
「当然のことでしたね。華月殿のような聡明なお人ならば、斯様に身分あるお方とご一緒にもなりましょう」
首を傾げる華月の横で、中嗣はいつもの涼やかな笑顔を見せていた。
衣装や所作から中嗣が官であることは察しているだろう。
彼が確かに商人ならば、風貌から相手の立場を読み取る能力には長けているはずだ。
ところが男は感情を隠さずに中嗣を睨み付けたので、これには中嗣の方が驚かされる。睨まれて怯んだわけではない。
商人ならば、文官などはさぞ嫌いであろうが、商人だからこそ、それを隠して官相手には上手く取り繕うものである。ましてや関わりのない官などに、嫌な顔を向ける利が彼の方には一切なく、中嗣のようにとは言わずとも、ここは笑顔で切り抜けるところだろう。
それを目の前の男はしないのだ。
男はなお無礼にも、挨拶もせず、中嗣をいないものとして扱った。華月に視線を戻して、華月だけに笑顔を向けたのだ。
「実はお礼の品が出来上がりましたので。華月殿に早くお会いしたいと思っていたのです」
「そうだったのですね。しかしあれは私が勝手に楽しんだことですので、以前も申した通り、礼としては受け取れません」
「それではこちらの気が済みませんので、どうか受け取っていただきたい」
「お気持ちは分かりましたが、この件はまた別の機会にでも」
華月がちらと中嗣を見やった。
その顔色を窺うような顔には、中嗣とていい気分はしない。どんな顔だろうと、華月に向けられると気は緩むのだが。
男は大袈裟な手ぶりを加えて「これはお邪魔をしてしまいまして」と言い、嫌味なほど頭を下げてから去っていく。蒼錬と呼ばれた男は何を考えているのか。
「知り合いか?」
「うん、少しね」
説明して貰えないことで余計に気になり、けれども祭りの日に追及し、なお嫌われては堪らないし、あんな男のせいで祭りの楽しい気分を台無しにされても困る。という葛藤のなかで、中嗣は次の言葉を選んでいたのだが。
そこへまた声が掛かった。中嗣は今や、最悪な気分だ。
「おや、中嗣殿ではないか」
同じく三位文官である関幸が、軽く手を上げ近付いてくる。
同位であるが、中嗣の三倍近い時間を宮中の仕事へと捧げてきた男だ。
すでに中嗣はいつもの涼やかな笑みを浮かべていた。さすがというべきか、慣れとは恐ろしいものがある。
「これは、これは。外でお会いするとは。されど祭りのときですし、また仕事の際にはご指導のほどを」
適当なことを言って逃げようとする中嗣を、関幸は止めるのだ。
中嗣が怒らない人間とでも思っているのだろう。
「少しの立ち話はいかがです?前に娘について話したでしょう。ちょうど連れておりまして、これも何かのご縁というもの。是非とも中嗣殿に紹介したく」
関幸の後ろに身を隠していた若い女性が、ほんのわずかに顔を覗かせた。中嗣と目が合えば、恥じらうように視線を落とす。
中嗣は宮中で称されるような公平な男ではない。
これが華月であれば、可愛い仕草だと絶賛して見惚れているだろうが、中嗣は恐ろしく偏った思想でもって、関幸の娘の仕草を非難していた。計算高く作られた可憐さとして受け取ったのだ。
いつも作り笑顔の男がこのように考えているのだから、救いもない。
「左様でしたか。しかし今は少々……」
時間がないと断ろうとする中嗣の羽織を、後ろから引く者があった。
可愛い仕草とはこれを言うのだ!あぁ、なんて可愛いのだろう!
という中嗣の心の声が聞こえていたら、関幸もその娘もまた違った態度を示しただろう。
華月は無常にも中嗣に感動する時間を与えなかった。気が緩んだ隙に手が離れている。
「中嗣様。私は近くの店でお使いを終えて参ります。どうぞ、ごゆっくり」
まるで中嗣の家の下女のような態度で一礼し、去っていく。
いやいや、待て待て。
止める間もなく人の流れに消えていく華月を追いかけようとするも、関幸も必至でこれを止めようと言葉を重ねていく。
中嗣の笑顔がいよいよ崩れそうだった。
「将来のある中嗣殿ですから、沢山のご縁談話が舞い込んでおりましょう。さぞ素晴らしい娘さんたちとお会いしておるのでしょうが、お相手を決めかねていらっしゃるのであれば、是非ともうちの娘も候補に入れていただきたい。娘の器量はこの通りでお眼鏡にかなうとよろしいのですが、幼い頃より管楽に興じて来まして、これがなかなか評判の腕前でしてな、娘可愛さだと思われましょうが……」
家と家との繋がりは、宮中を楽に生き抜くために必要なことである。
一部の官からすれば、子どもも孫も政略の道具に過ぎない。
娘の多い関幸は、特にその方法を好んでいた。
中の家と付き合う利など望めなくとも、どう転んでも問題なきよう、中嗣の元にも娘を嫁がせ、保険を掛けておきたいのだ。
こういう男ほど、何かあったときに娘をばっさり切り捨てる非情さを見せるとよく知る中嗣は、娘に同情したくもなったが、当の娘がまんざらでもなさそうに頬を赤らめいたので、その気も消えた。
ばっさり切り捨てよう。
「勿体なきお話を有難きにございますが。私にはすでに心に決めた方がおりまして」
などと、涼しい顔で微笑みながらまだ優しさを持って中嗣が言ったのに。
関幸は失礼にも、「二人目の妻でもよろしいが?」と返すのだ。
中嗣は再び同情しようとしたが、娘はまだ頬を赤らめていて、その必要がないことを知る。
「私のような未熟者には妻一人を愛することで精一杯です」
「これは、また。ご立派な中嗣殿からの言葉とは思えませんな。あのような仕事振りで、女を一人しか愛せぬなど。それはいささか謙遜が過ぎるというものです」
価値観は相容れない。
「関幸殿。今日は非番ですから、無礼な言葉も聞き流してくださいますかな?」
「おや、どうされた?」
「貴殿の娘殿は、我が愛しい方には遠く及ばず。私の琴線にはまったく触れるものをお持ちでないご様子ですし、申し訳ないが、側に置きたいと思う女人ではありません」
娘の顔から赤みが消えた。関幸は「これは失礼。娘は他にもまだおりまして……」とさらに粘ろうとしたが、中嗣はさすがに付き合いきれず「もう結構。非番中だと申しましたよ?」と強めに言うと、退散した。
最後まで笑顔は保たれていたが、好みではないなどと笑顔で言うことではないだろう。娘は一人泣くのだろうか。それとも中嗣を恨むのか。
しかし関幸と娘のことなどはたった今記憶から消えたようで、中嗣は慌てて華月を探した。
あぁ、あそこに。おや、また嫌なことが起きているではないか。
中嗣が見付けた華月は、一人ではなかった。華月と同じ年頃の若い男が隣に立って、華月に話し掛けている。
今度の男は質素な衣装だから、身分もそう高くないだろう。
中嗣は気配を消すように、華月の背後からゆっくりと近付いた。賢い男であるのに、こういうところで嫌われると何故か分からない。
「やる!」
「要らないよ」
「いいから、貰ってくれ」
「要らないってば。私は使わないものだよ」
「なら、捨ててもいい!」
華月の手に何かを握らせると、男は走り去っていく。
二人がいたのは、簪を売る出店の前だった。
中嗣には若いなぁと目を細めてやる余裕はないし、知らぬ男への配慮もない。
「今のは、何?」
冷静を装ったつもりでも、自然に声色が暗くなる。
ところが華月は落ち着いた様子で、「何だろう?」と首を傾げた。
なんて可愛い。
一瞬身悶えそうになった中嗣だが、この状況は認められず、華月の手のひらに乗った簪を奪い取った。葉を模した木彫りの素朴な簪だった。
「これは駄目だ。私から返しておくよ」
「え?なんで?」
「いいから、私が返しておくからね。どこの誰かな?」
「それなら私が返すよ。元から受け取る気もなくて、返そうと思っていたからね。それでいい?」
その焦って慰めるような言葉が、中嗣の心をかえって乱してしまった。
笑顔であるが、目が笑っていない。
「いいや、私が返す。あれはどこの誰?」
「お客様のところの下男だよ。たまに配達で会うことがあって」
「玉翠にも言っておくから、そこはもう行かなくていい」
「そんなわけには。仕事だよ?」
「君が配達しなければならない理由はないだろう」
「そうだけど仕事だから。簪だって私が受け取っちゃったんだから、自分で返すよ」
中嗣は自分がしていることに、筋が通っていないことは分かっている。
が、この簪は返したくない。
「ならば、私が代わりのものを贈ろう」
「どうしたの?代わりって?意味が分からないよ。何の代わり?」
聞こえないふりをして、中嗣は並ぶ簪を物色した。
これだな、と思うものをひとつ取る。それは先ほどの下男が手渡したものとは違い、連なる玉の飾りが付いたものだ。
中嗣はこの選択を、自分でも嫌らしいなと思っていた。それでも選んだ簪を買って、華月に手渡す。
そしてさっと小さな手を取ると、歩き出した。
「待って、中嗣。貰う理由がないよ?」
華月の手の温もりが、中嗣の乱れた心を着実に鎮めていく。手が払われない今日が嬉しい。
「理由なく贈りたいときもあるよ」
「そうだとしても。どうしたらいいの?」
中嗣の手を引くようにして、華月が立ち止まった。泣きそうな顔に見えて、中嗣も焦る。
「そんなに嫌だった?」
「嫌ではなくて、困るよ。私は簪の使い方を知らないから」
中嗣とて、簪を贈ったのは勢いだ。
さて、どうしたものか。そうだ。
思い付いて、簪を華月の腰帯の隙間に挟む。
中嗣は満足したように頷くが、華月はどうか。
「揺れると綺麗なものだね」
中嗣の案は認められたようだ。
華月が微笑して、連なる玉飾りを指の先で弾いたとき、あぁ、贈ってよかった、と中嗣はしみじみと思うのだ。きっかけをくれたあの簪を贈った男に感謝してもいいと、偉そうに考えを変える自分を滑稽に思いながら。
中嗣の幸せな気持ちは長く続かない。
「じゃあ、さっきの簪も隣に……」
「あれは駄目。返しておくからね」
にっこり笑って言えば、華月はそれ以上何も言わなかった。
華月の手にきゅっと力が籠ったときには、再び中嗣は幸せな気分に包まれる。
祭りはまだ始まったばかり。
中嗣は出来心で指の筆だこをなぞってしまったが、華月は何の反応もせず、並ぶ出店に心を奪われていた。無意識でさらに触っていたら、すぐに叱られた。
もう少し学んだ方がいい。