3.高位の文官様は扱いやすい人でした
それから三日後。
宮中の官たちが朝食を終えて仕事に動き出してまだ間もないときに、紅玉御殿の無駄に広い部屋の中で五位医官の声が響く。
「華月殿からすっかり頂いてしまいましたなぁ」
いつもより顔の赤い中嗣を前に、羅生が呆れた表情を浮かべた。
「今すぐ完治する薬を出して貰おうか」
「そんなものがあったら、私は今頃医大臣ですぞ。すぐに完治はしない薬を飲んで、今日は休んでくだされ」
「休めないから、頼んでいる!」
文机に向かう中嗣の周りに、書類の束からなる塔が出来ている。それも一つや二つではない。
「食事は取られましたか?」
「いいや。食欲がなくてね」
「なりませんなぁ。薬を飲む前に少しは食べて頂かないと」
「食べなくても平気な薬を出せばいい」
中嗣らしくない言葉が続くのは熱のせいだと言いたいところだが、羅生相手だとそれも怪しい。
治療に呼ばれた医官であるのに、最初からにやついているのだから。
誰かが見ていたら、気心が知れた仲だと思うだろうか。それよりも、熱で中嗣が乱心したと騒ぐかもしれない。しかしこの広過ぎる部屋には、二人の他に誰もいないのだった。
「では甘い物ならどうです?中嗣様は甘味がお好きだから、少々ならばお口に出来るかもしれないと預かってきたものがありましてな」
誰に?と聞く前に、羅生のにやついた顔で中嗣には察しがついた。
「まさか来ていたのか?」
「えぇ。中嗣様は忙しそうでしたので、私がお会いしておきました」
「頼んでいない!何故すぐに言わないのだ」
「呼ぶなと言われたのですよ」
中嗣からうっという唸り声が漏れる。
「しかし中嗣様は食欲がないのでしたな。いやはや、残念ですが、これは私からお返ししておきましょう」
「少しならば平気だ。頂こう」
羅生が笑いながらも、手際よく準備して羊羹と茶を差し出すと、中嗣はもはや仕事の顔をどこかに隠してしまった。ほころんだ顔から、また違う熱が出ている。
「私も頂いて宜しいですな?」
羅生が言うと、中嗣は嫌だと断った。子どものそれだ。
「こちらの羊羹は皆さまで、と言われてお預かりしてきました。中嗣様用には、もう一本別にお預かりしていますが。さて、ここにあるものが見えますかな?」
羅生は意地悪く、羊羹の箱を中嗣から遠ざけるようにして掲げた。
華月が言ったとおり実行していることも、中嗣には伝わっている。
「分かったよ。食べていいから。早く渡してくれ」
早く見せろと駄々をこねる様は三位の文官様にはとても見えず、羅生にはこれが可笑しくて堪らない。
中嗣は羅生の存在を心から消したようで、嬉しそうに破顔して文を解いていく。
『あなたの部下は、あなたより優秀です』
文字はこれだけだ。宛名も差出人名もない。
横から羅生が紙面を覗き込み、また嫌らしく笑うのだ。
「中嗣様くらいですよ。これで喜べる男は」
「私からすれば、これで喜べない男の方がどうかしているね」
熱があることも忘れてしまったのではないか。中嗣の顔色は、先より改善されていた。
一部の人間に限っては、薬よりずっと効くものがあるようだと思いながら羊羹を頬張り、羅生は「そういえば、妓楼屋で擦りむいた話。聞いておきます?」と提案するのだ。
中嗣は何故今なのだ?という疑念を持ったが、気になっていたので聞くことにする。
「悪酔いした客に、跳ね飛ばされたみたいですぞ」
「何だって?」
また違う意味で、熱が上がりそうだった。
落ち着くよう促されて、中嗣は羊羹を頬張る。甘い。とても甘い。その甘さが、脳裏に浮かぶ華月の笑顔と自然重なった。甘ったるい羊羹など、華月はまったく好きではない。その華月がわざわざ足を運んだ羊羹屋でどれにするかと悩む姿を想像しては、心の内で悶絶し、叫ばぬようにと奥歯を噛んだ。
甘さに酔いしれるうちは、目の前の羅生の存在は消え、憂いは吹き飛ぶ。
しかし心配が消えたわけではない。中嗣は羊羹を食べながら、羅生に先を促すことにする。
「常連の客ですがね。何か嫌なことでもあったのでしょう。その日は虫の居所か悪く、遊女に当たって、勢い殴ろうとしたそうです」
「あの子が庇ったの?」
玉翠が聞いていたら、彼は何度ため息を漏らしていただろうか。中嗣とて、井戸より深いため息を漏らしたい気持ちになった。風邪のせいではなく、胃がむかむかする。決して、甘い羊羹のせいではない。
「幸い少し擦りむいただけというのは本当でした。されど、ここからが面白い」と漫談家にでもなったかのように、羅生はわざとらしい抑揚と興奮を交えて語り出した。
「お兄さん、いつも優しいって姐さんたちから評判なのに。今日はそんなに荒れて、きっとすごく嫌なことがあったんでしょう?いつもは優しい人なんだから、こんなことをしていたら、後でもっと辛くなってしまうよ。嫌なことがあったときは、人に語るか、飲んで寝るかに限るけど、妓楼屋に来たんだから今宵は語りたいんだよね?私で良かったら、心ゆくまでお付き合い致しましょうぞ!ってなもので」
男はそれから号泣し、胸の内を吐き出した。
それ以来、華月とその男は仲良くなって、たまに一緒に飲んでいるらしい。それはそれで、中嗣はまた別の心配をしなければならないのだが。
「あの子はいつも、何をしているのだろうか……」
遊女たちが心配し、手厚く看病してくれたわけである。
飲むなというのも、他に怪我をしていないか、心配してのことだ。怪我は軽かったのかもしれないが、おそらくかなり強く弾き飛ばされたのだろう。食事を取らされたのも、簡単に吹き飛ばされた彼女の軽い体を心配してのことに違いない。
「お風邪のときに言うものではありませんが、逢天楼には遊女ではなく、別の者と語りたいと通う者も多いそうですぞ?」
「祖父殿のようにと言いたいのか?」
「祖父は関係ありませんが、その祖父も消えたのです。何故もっとお会いにならないのですか?妓楼屋などに通う暇を与えておいて、後悔しても知りませんぞ」
中嗣の顔から表情が消えていた。
いつもの笑みもなく、しばらく無言を通した中嗣だが、その顔のまま言い訳をするように小さな声を吐き出した。
「…………私は嫌われているからね」
「そうは見えませんけどね?勝手な思い込みではありませんか?」
中嗣は目を閉じて、答えなかった。熱が辛いのだろうか。
そこに外から声が掛かる。
反射的に中嗣は表情を取り繕った。よくやるものだと、羅生は心の中では軽蔑と尊敬を織り交ぜておきながら、嘲笑を浮かべる。
「お風邪だとお聞きしましたが、起きていて平気なのですか?」
「酷いお顔ですなぁ。お休みされてはいかがです?」
中嗣からすーっと波が引くように笑顔が消えた。やって来たのが利雪と宗葉だったからだ。
部下にしてから二人の前で涼しい顔を作らなくなったわけではない。
笑えないことが起こると瞬時に察したのだ。
利雪は中嗣の顔色を伺うこともなく突進し、懇願した。
「それは、まさか!華月殿からの文ですね?中嗣様、どうか私にも拝見させてください!」
人の文を横から覗き見る悪趣味な己を忘れ、利雪のふるまいには羅生でさえ身を引いている。
宗葉は注意を諦め、こちらに飛び火しませんようにと願っていた。
しかし、この場の空気を凍らせている利雪は、中嗣が顔を引き攣らせているにもかかわらず、半ば奪うように文を受け取ると、うっとりと目を細め微笑する。
「流石、華月殿。これはまた美しい字ですね」
利雪の趣味を理解出来るものは、この場にはいなかった。
中嗣は華月の文字を美しいと感じているが、字に対する執着はない。
文字よりも彼女自身の方がずっと美しいと思っていたし、彼にとっては彼女が書いた文であるという事実の方が重要だ。
だからだろうか。中嗣は利雪に対しては、今のところ嫉妬のような感情を覚えたことはない。しかし、文を奪われたことには不満がある。
それが利雪には伝わらない。
「中嗣様。華月殿に、宮中の書類を書いて頂けないものでしょうか?」
このまま熱が引くのではないかと感じるほど、すっかり中嗣の頭は冴えているが、頭が冴え冴えとしているのは羅生も宗葉も同じだった。
しかし言わなければ伝わらない男相手なので、中嗣が冷静に苦言を呈す。
「宮中の書類を外に頼むわけにはいかないよ。君がそれを知らないとも言わせない」
「もちろん分かっておりますが、華月殿が書いた書類を手本にすれば、少しは読みやすい書類が増えるのではないかと思ったのです」
「手本か……うん」
少し思うところがあったようで、中嗣は腕を組むとじっくりと考え込んだが、それを邪魔するのが羅生だ。
「お二人もお茶になさらぬか?」
二人の分のお茶を淹れようとする羅生を、これまた中嗣が慌てて止めた。自分の分が減ってしまうから、別の茶を淹れろと言うのだ。
ここまでくると、羅生は笑ってしまう。まさに、読み通り。
「中嗣様。皆さまにも滋養に良いお茶を頂いてもらわねばとのことでしたよ。さて、ここに別の袋が御座いますが、こちらはより一層高級な薬草を配合した特別なお茶だそうで、病人にはぴったりの品だと言っておりましたなぁ」
文が付いていることは、見るまでもなく明らかだった。
中嗣は同じ茶を利雪らにふるまうことに同意して、急いで羅生から袋を奪い取ると、また同じように折られた文を丁寧に解いた。
『体の悪い方とは、祭りに行けません』
治したところで、一緒に行くとは書いていない。
それでも中嗣には十分過ぎる言葉だ。
喜びに溺れていたい気分だったのに、またしても利雪は中嗣から文を強奪……ではなく受け取り、書かれた字をなぞるのであった。今度ばかりは許せずに中嗣も部下を睨み付けるが、利雪は気付きもしない。
くつくつと笑う羅生の嫌味ったらしい声に、中嗣は眉間の皺を深めた。
こんな顔もするのだなぁという感慨も、もはや消えた宗葉である。真実を知った今は、女官らを惹き付ける爽やかな笑みも、詐欺師のそれのように見えていた。
くっ、生まれつき見目のいい男たちめ!と鏡の前で爽やかな笑みを訓練しようとした宗葉が絶望し逆恨みしたのは、昨夜のことである。別に自分が悪い顔ではないと宗葉は思うも、特別良い顔ではないことも知っていた。
いつもこんな顔でいたら……それはそれで、結局人気があるのだろうな、と一人想像し、宗葉は死んだ魚のような目をしているが、こればかりは誰も気付かない。
「君は本当に、文字が好きだな」
間違いなく嫌味だと、羅生と宗葉は知っているが、利雪だけが分からない。
「えぇ、華月殿の文字は素晴らしく、何時間でも見ていられましょう」
「そうか。そうだとしても、これは私への文だから何時間も君には預けられないよ。もう返してくれるね?」
「それは残念ですが、お返しいたしましょう」
おいっ。と突っ込む利雪以外の三人だった。
しかし続く利雪の言葉を聞くと、羅生などは案外分かっていてあえて知らぬふりをしているのではないかと利雪を疑いたくなってくる。
「中嗣様。見せて頂いたお礼に、良いことをお伝えしましょう。この文の紙は、どちらもあの写本屋では一等のものですよ。そしてどちらの文も、手抜きと言うものがありません。写本と同じように丁寧に書かれた字です」
利雪の度重なる失礼な振る舞いをすっかり忘れるくらい、中嗣は喜んだ。おそらく今は風邪を引いていたことも忘れている。
しかしお茶と羊羹をすっかり堪能するうち、自分の状況を思い出したのだろう。中嗣はいつも以上に爽やかな笑顔で言った。
「私は少し休むことにして、後は君たちに任せよう。何せ君たちは、私よりずっと優秀だからね。利雪、宗葉、そちらの書類はすべて頼んだよ。締め切りは今日までだ。それから羅生。医官殿らからの書類は酷過ぎるから、急ぎ黄玉御殿に戻って、やり直すように伝えなさい。彼らだけでは駄目だろうから、君も手伝うように。私は向こうの部屋にいるが、余程の緊急時以外、声を掛けないでくれたまえ。ではね」
言い終えると、さっさと部屋を出ていった。寝る気だ。
「あぁ、そういう意味のお茶と菓子だったか」
宗葉の呟きは、他の二人にも重たく圧し掛かった。
今度は三人の若き官たちが、風邪を引きそうである。
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