2.想い人は少々様子がおかしい
暖かい日と寒い日が交互に訪れて、春の終盤へと向かう頃。
吹き荒れる桜の中を駆け抜ける男たちがいた。
仕立ての良さそうな羽織の裾を靡かせて、男たちはやがて見知った写本屋に飛び込んでいく。
「風邪ですな」
写本屋の二階の一室にて、ほんのりと顔を赤く染めて眠る華月の周りに集まる三人の男たち。
三位文官の中嗣、五位医官の羅生、この写本屋の店主玉翠である。
玉翠から連絡を受けた中嗣は、宮中の仕事も早々に片付けて、羅生を引き連れ、通い慣れた写本屋に足を運んだ。ほとんど走って来たから、宮中から来た二人は汗だくである。誰もそうとは言っていないのに、重病人がいるようなことを言われた羅生は、振り回されてほとほと疲れ果てていた。
「お二人様。ありがとうございました。この後はどうされますか?」
玉翠は丁寧に頭を下げて二人の官に礼をした。
「華月が心配だから残るよ」
「ただの風邪ですぞ?寝ていたら治りましょう」
「昔から熱のときによく魘される子なのだよ。こんなときくらいは側にいてあげないと」
中嗣のなかで、重病人扱いは継続中のようだ。羅生の声など、いつまでも届かないだろう。
「では夕餉のご用意を。羅生様もいかがです?」
「私へのお気遣いは無用ですぞ。これから所用もありましてな」
「用があるのに悪かったね」
「いつもより早く宮中を出られて良かったくらいです。しかし中嗣様、そのように過保護に付き合うならば、そろそろ半人前から脱しては如何でしょうか?」
中嗣は珍しいことに眉間に皺を寄せていた。
ここが宮中ではないのもあるが、羅生という男のせい。いや、発言の中身の問題か。
官の前で顔を歪めるようになったのは、進歩か退化か。中嗣にとっては自身では判断しにくい微妙なところである。
「君に言われたくはないのだがね」
「これは失礼。楽しいのは最初だけ、とても見ていられないものでしてね」
「楽しむな。見るな。関わるな」
「不満は祖父に流してくだされ」
「君という人間への不満だが?」
羅生は遠慮なく笑ったが、眠る娘の側で冗談を語り合うものではない。
というわけで、羅生を見送るために一度全員で下に降りることにする。
そうして、しばし店先で立ち話をしていたときだ。
女性の短い叫び声と共に、大きな物音がして、一同が振り返ると……。
階段の真下で、華月が尻もちをついているではないか。
「あぁ、もう!何をしているの!」
中嗣は叫びながら駆け寄るときに、あることに気が付いた。とても重要な意味のあることに。
自然、華月の前で足が止まる。
「着替えてどこへ行くつもりかな?」
「うぅ…、裏から出ようと思ったのに……」
「どこへ行くつもりだったのかと聞いているよ?」
微笑む中嗣の声はいつも通り優しいのに、そこに仄暗いものを感じて華月は目を泳がせる。
「どこへ?」
三度聞かれて、華月も観念した。
「……花街へ」
玉翠からはため息が漏れるも、羅生は呆れながら笑っている。
中嗣は優しい声のまま、説教を始めるのだった。
「そんな熱でふらふらの状態で、行けるわけがないだろう。今宵はおとなしく寝ていなさい」
「平気だよ。酔ったときも似たようなものだから」
「似ているものか。ほら、戻るよ」
手を取って立ち上がらせようとしたときに、小さく「痛い」と漏らすから、慌てて中嗣は華月の前に腰を落として、一層と優しい声を掛けることになる。相変わらず、この娘に対しては過剰に優しい男だ。
「どこが痛い?どこから落ちた?」
「最後の数段だから平気。でも足首を捻ったみたい」
「羅生、用があるところ悪いが、足首も診ていってくれるか?」
重度の怪我でもしたような気迫で頼む中嗣に、羅生はうんざりしつつ了承した。
幸い怪我は軽い捻挫で、数日もすれば治るものだと言えば、中嗣からようやく安堵のため息が漏れるのだった。
羅生に薬を塗られながら、華月は訥々と不満を漏らす。
「美鈴と約束しているのに……そろそろ本当に刺されそうだし、あんな可愛い子を泣かせるわけにもいかなくて……それにこれくらいの熱なんて、どうってことないし……」
「案ずることはない。私から事情を伝えておこう」
そう言ったのは、羅生だった。驚いて華月が顔を上げる。
「これから逢天楼に行くの?」
「そうだとも」
羅生は意外と物好きな男である。
それはそれで困るなぁと何気なく華月が呟くから、中嗣は詳しく問わなければならない。
「この間、ちょっと擦りむいただけで大事になって。お酒は飲ませてくれないし、何故か食事ばかり勧められて、大変だったんだ。風邪を引いたなんて言ったら、またお酒が飲めなくなっちゃうよ」
「羅生!妓楼屋の皆さまには、大風邪を引いたとでも言っておいてくれ。しばらく酒など飲ませるなとも!」
中嗣が珍しく大きな声を出す後方で、玉翠は深いため息を何度漏らしていただろう。頭痛でもするのか、右手で額を押え、繰り返し息を吐き出すのだ。
そして華月は、なぜかがっくりと肩を落としていた。
「それで?擦りむいたって?何をしたの?」
「…………ちょっと転んで」
華月の目が忙しなく泳いだ。
中嗣が羅生に目線だけで思いを伝えると、羅生は渋々と頷いた。
そうして中嗣に抱えられて再び布団に寝かされた華月は、それでも諦めたくないのか、なお口を尖らせて不満を訴えた。
「もう大丈夫だってば。中嗣は早く帰って」
「派手に転んで、どこが大丈夫なの?」
「元気だよ。どこも痛くないからね」
「いいから、早く寝なさい。側に居るから」
「別に居なくてもいいのに」
もう話すつもりはないと、中嗣が分厚い掛け布団の上からぽんぽんと胸の辺りを叩いていたら、すぐに華月は眠りに落ちた。それは小鳥が空から落ちるような、すとんとした眠り方だった。
その夜魘される華月の側で、中嗣がずっと優しい声を掛け続けていたことを、きっと彼女は知らないだろう。
翌朝、華月の熱はすっかりと引いていた。