20.あの日に得たもの
「華月、その話は聞いていないよ」
その笑顔は、向けられた人間から熱を奪う。
他者に向けられている限りは、また嘘くさい顔で笑ってと半ば呆れながらも見守っていられる華月だったが、これが自身に向けられたときは違っていた。
華月は冷や汗を浮かべながら、「あれ?言っていなかったかな?」と分からぬ娘の振りをする。
崩した足を横に流し、裾から大きく開かれた衣装によって右の太腿が露わとなった状態では、なにひとつ誤魔化せそうにないと思いながら、華月はそれでもなんとか逃げられないものかと思案した。
「あの男は君の衣装を剝ぎ取ろうとし、抵抗した君を殴ったということだったね?」
悪いのはあの男であって、冷ややかな微笑を向ける相手は華月ではないだろう。
それは中嗣も十二分に分かってはいるのだが、あの件に関してすべてを伝えてくれなかった華月に対し、ほんの少しの憤りを感じずにはいられなかった。
傷や過去について語らなかったことと、この件は中嗣にとって同義ではない。
蒼錬については、中嗣も関係者だ。
「えぇと……それで間違ってはいなかったよ?」
「体にも触られていたとは聞いていないな」
「えぇと。そうだったかな?」
こんなにも分かりやすく目を泳がせてしまうなら、今後は華月も誰かのことを笑えないだろう。
「華月?」
にこりと笑顔を向けられて、華月はもう悟った。
このしつこい男から逃れられるわけがない。
「中嗣が心配するようなことは何もなかったよ?」
「つまり触られたのだね?」
「少しだよ。倒されて、そのときに少しだけ。でも、ほら!自分から手を離してくれたからね!」
華月は努めて明るく言ったが、目の前にある中嗣の笑みのせいで寒気を覚えるのだった。それが肌を晒しているせいだとしたら、どれだけ良かったか。
しかも中嗣は、それまでとは違うとても低い声で言うのである。
「彼の処遇を今一度見直さねばならないようだ」
「今さらそんな。そうだよ、中嗣!それよりも!今はこの傷の話をしよう!」
だからもう忘れて、お願い。
瞳で必死に訴える華月に、中嗣は「くっ」と声にならない音を漏らして、今だけはその願いを叶えることにした。
そう、今だけの話だ。
華月の言うように、蒼錬ごときに構っている時ではないが、後でたっぷりと話し合おうと思っている。
「そうだったね。他の部位も見せて貰えるか?」
それから中嗣は左の太腿、腹の順で、華月の火傷痕を見ていった。
左の太腿は、右と変わらぬ様子であったが、お腹は少し違っている。
文字の大きさは変わらないが、その字がぎゅっと詰まることによって、火傷痕に重なる影がより濃く見えるのだ。その一方で腹の傷には影のない範囲も広く、影の有無による差異がより観察しやすくなっていた。
しかし、この黒い影。一体どうやって入れられたのだろう?
彫り物のようにも思えるが、火傷の上からこのような文字を刻むことなど考えられない。
「どうしてこれが入ったか分かるか?」
華月は迷いなく首を振った。
「火傷の後に目が覚めたときには、もうあったの。先生が言うには、運ばれてきたときにはすでにあったそうでね。だけど他の子たちからは、この字について聞いたことがないんだ。こんなものがあったら、皆も騒ぎそうでしょう?先生はそれも、皮膚が焼け爛れて酷い状態だったから、皆にはよく見えなかったんだろうと言っていた」
華月もまた、今になってあの先生に思うところがあるのだろう。
頭に掛かる白い靄が消え去った今だからこそ、見えるようになったことが華月にはいくらもある。
「あの先生とは、一度よく話すとしよう。君はこれが通常の火傷痕だと教わっていたのだね?」
「そうだね。あの頃はそれを信じてもいたよ」
「いつおかしいと気が付いた?」
「医術書の写本を任されたときに」
他人の酷い火傷痕などは、幼い華月が知らなくても当然である。中嗣とて見たことがないのだから。
だがそうだとしても、さすがに文字については、おかしいと感じていたのではないか。
この中嗣の疑問を解消すべく、華月は当時のことを説明していった。
「実はね、最初の頃は火傷をした部分を見ることが出来なかったんだ。なんだか怖くてね」
火傷に限らず酷い怪我を負ったあと、その傷を見ることが出来なくなる。
それは何も子どもだからという話ではない。大人でもそのような状態に至ることがあると知られていた。
あらゆる医術書を急ぎ読み解いた中嗣なら、もう知っていただろう。華月が言うところを簡単に受け入れたのだから。
「そうだったのか」
「うん。こんなに痛くて、どうなっているのかと想像すると、とても怖ろしかったんだ。それにほら、寝たきりだったでしょう?あの頃は体を起こすことも出来なくて、自分で傷を見ることも一苦労だったし、そのうえ傷は薬を塗った布で厚く覆われていてね。結構長い間、知らないままでいられたんだよ」
「君の世話はあの先生と彼がしていたのかな?」
「寝ている間がどうだったかは、分からないけれど。傷を見る世話をしてくれていたのは、その二人だったと思うよ。食事の世話なんかは、他の子たちもしてくれていたけれどね」
その場にいたら己には何が出来ただろうと想像してしまい、中嗣は強く胸を痛めた。
どれほど辛かったのだろうか。どれほどの痛みに耐えたのか。幼い体で、幼い心で、どれだけ苦しかっただろう。
それを知ることすら、中嗣には許されていないのだから、それは胸くらい痛む。
代われるならば、代わりたいと願う。今この場でも、代わりに傷痕のすべてを抱えたいと願っている。
されども代わることで、同じ胸の痛みを今度は華月が抱えることもまた、望んではいないことで。
だから叶うならば、火傷をする前に戻り、華月を守りたいものだと中嗣は強く願った。
このような叶わぬ願いを持ったとしても、中嗣がさらに苦しくなるだけだ。強く願うほど、叶わないと知らされて、苦しみも増していく。
それがよく分かっているのに、中嗣はなお願わずにはいられないとは、なんと不如意か。
こうして中嗣は、切なくて、苦しくて、重たい枷のような、このどうにもならない感情を持て余すのだった。