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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第八章 はかるもの
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17.ひとつになるもの


 背中から手が離れたときに、真っ先に感じたのは、冷たさと淋しさだった。

 耐えることからの解放感も、憂えがなくなった安堵もなく、また触れて貰いたい、どうすれば自然に触れて貰えるか、と考え始めていることには、中嗣も心の内で自身の節操の無さを嗤ってしまう。


 今はそんなときではないだろう。冷静に己を諭す自分の声も聞こえているというのに。 


 その冷静さから来る声をなんとか先に立てて、背を向けたまま、さっと袖に腕を通した中嗣は、長衣を着直して、華月に向き直った。

 そしてまっすぐに華月のいつもよりも潤んでいると感じる瞳を見据えたのだが。


 なんとここで、華月はすっと視線を横に逸らしたではないか。

 中嗣は想像していなかった愛しい娘からの反応に、酷く狼狽することになる。



 まさか、この状況でおかしなことを考えていたことが分かったのか。

 いや、そうではないな。そうであるはがない。

 これはきっと……


「無理はしなくていいよ、華月。私は見たいとは願うが、君が苦しいことを強いる気持ちはないからね。だから今はまだ早いと思うのであれば、いつまででも待とうと思っているよ。焦ることはない」

「無理なんか――」



 言い掛けた華月の手を引き、中嗣はその胸に華月を抱き寄せた。



 中嗣はどうして、華月の心を読み間違えることが出来たのだろう?

 やはり背に直に、それも予想よりずっと長く触れられていたせいで、気が触れていたのか。

 もっとも理解出来る状況に、ほんの少し前までその身を置かれていたというのに。



 華月が視線を逸らしたのは、着崩れた衣装の隙間からいつもより多く覗く肌を見ないようにしただけのこと。

 華月は今さらに、先まであれほどに自分の意志で触れていたものが何かと気が付いたのだ。


 そんな己の足りなさを脇に置き、華月は心で叫んでいた。

 先まで心中を丸ごと覗いているかと思うほどの理解者であったのに。どうして今は気付いてくれないの!と。


 しかし叫ぶ間もなく力強く腕を引かれたせいで、中嗣の肌に鼻先が触れてしまい、慌てた華月は反射的に顔を横向け、回避しようと思ったのだが。力いっぱい抱き込まれてしまえば、頬をその肌に押し当てることになった。


 なんてこと!


 離せと叫びたいのだが、華月は声が出せず、次第に頬が、そして顔が、全身が、熱くなっていく。

 すでにその顔は蛸よりも茹で上がっていたが、気の毒なことに中嗣には見えないのであった。



「君が問題ないときまで、私は待つよ。だから今は本当に無理をしないでくれ」


 中嗣も、中嗣だ。

 まだ気が付かずに、華月を励まそうとしているのだから。


 先まで恋情から来る熱病に魘されていた男は、どこに消えたのだろう。

 あれほどに敏感だった肌で、どうして今、触れているものを知らずにいられる?


 ここに羅生でもいたら、しみじみとかの老人の考えに同調していたことだろう。

 まさに似た者同士。順に同じ目に追い込んでいる。



 けれども華月は、中嗣とは違い、耐えるのではなく、跳ね除けようと思った。

 こんなものに負けて、中嗣が勘違いしたままに、この場を終えるわけにはいかなかったからだ。


「無理なんかしていないよ!」


 華月が力を振り絞って叫ぶと、それはそれで、それほどに辛いのかという勘違いをますますと深め、あとで少し恨まれて愚痴を零されることになる中嗣である。

 だが、それもこれよりはずっとあとの話。先に進もう。


「先のこともあるし、少し休んでから考えるとしようか。そうだ、それがいいね。しばし横になって――」

「本当に無理はしていないの!中嗣に見て欲しいんだよ。今、見て欲しいの!お願い、中嗣。気分の良いものではないけれど、どうか見てくれる?」


 叫ぶように言い始めた華月だが、最後は今にも泣き出しそうなか細い声に変わっていた。

 これで中嗣は一層と心配を深めるのだが。


 中嗣とて、華月の固い決意を受け取っていたし、さらには愛しい娘からのいかなる願いも無下に出来る男ではなかったので。


 中嗣もまた、この瞬間に心を決めたのだ。

 今にしよう、と。



「気分など良くはなれど、悪くなどなるものか。かねてから見たいと言っているのも、私の方だ。お願いするのは私からだよ、華月。どうか私に君の体に抱えるものを見せて欲しい」


 ほっと息を吐いた瞬間が完全に一致していて、二人はそれから同時に笑い声を漏らした。


 日々過ごす時間が長くなるほどに、考え方だけでなく、ちょっとした仕草や表情、間の取り方、口癖などが似ていくと言われているが。

 元から似ている二人は、お互いに近付いて、さらに似た者同士となっていた。

 やがて行きつく先は、世間では夫婦と呼ぶものに決まっている。


 それがもう見えている中嗣と、まだ遠く目に出来ていない華月が、抱き合いながらよく似た笑い声を上げていた。



「ありがとう、中嗣」


 華月の声を合図に、中嗣は腕の力を解いたのだが。

 華月が勢い立ち上がったため、その手首を掴むことになる。


「待ってくれ」


 中嗣には華月の動作の先に、不穏な予感しかしなかった。中嗣からするととても小さな握らぬ側の手が、すでに腰帯の結び目を捉えていたのだから。




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