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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第八章 はかるもの
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15.心に触れたもの


 華月がゆっくりと手を伸ばし、印に触れたとき。中嗣は瞬時に己の甘さを痛感することになる。


 トクンと心の蔵から音がして。それからトクトクと中嗣の胸は高鳴り続けた。

 背中に触れた感触は、心の蔵へと直に触れられたように錯覚され、全身に流れる血を沸騰させるほどの熱を与えてくる。


 これはまずい。とてもまずい。


 中嗣の心中は荒れ狂う嵐のように騒めいたが、華月は印しか見ておらず、それを察してはくれなかった。

 華月の指の腹が容赦なく桔梗の花弁をなぞれば、さすがの中嗣も一度肩を大きく揺らしてしまう。


「ごめん、くすぐったかった?」


 そうではない。そうではないのだ。

 と叫ぶわけにはいかないので。

 

「少し驚いただけだよ。好きなだけ触るといい」


 中嗣は平然とした声を作り、紳士的に努めて言うが。

 華月から見えないようにして、固く拳を握り締めるのであった。


「肌の表面は何もないところと変わらないんだね。こんなに綺麗に色が入っているのに、目を閉じて触れたら何にも分からなくなるよ」


 己の熱情に水を浴びせることに必死な中嗣は、反応せずに華月が満足するときを待っていた。

 ひとたび口を開けば、ここで伝えるべきではない言葉が溢れ、止まらなくなると思ったのだ。


 己から触れることと、触れられることはまったくの別物であると、今までも知っていたはずのことを改めて実感していた中嗣は、今だけは無の境地に至りたいと願った。


 ところが、というより、やはりと言うべきか。


「ねぇ、中嗣。他の人の花も見たことがあると言っていたけれど、宮中ではこの印が誰かに真似をされてしまう心配はしていないの?」


 華月は中嗣の心中を察することが出来ていなかったので、中嗣の口を開くように急いてくる。


 中嗣はぐぐっと拳をさらに強く握りしめてから、何の問題も起きていない声色で華月の問いに答えるのであった。


「よく見たら、小さき印が入っていないか?」

「小さき印……あっこれのことね!」


 同じ瑠璃色であることでよく目を凝らさなければ見えないそれは、花の印影を表す模様へと上手く擬態していると言えよう。だから今まで桔梗を見つめ続けていた華月でもそれに気が付けなかった。

 それぞれの花弁に一つずつ入っているその小さな印は、どれ一つとて同じ形状のものはなく、その形から文字や記号のようにも思えたが、この国で知られる類のものではなかったので判断はつかない。そして二人が先から気にしていた書の字とは明らかに違っていることも華月には確認出来た。


「気が付かなければ真似出来るものではないだろう?じっくりと見て書き写すという手もあろうが、宮中ではその心配もされていなくてね。どうも特別な技術を用いているようで、模倣は極めて困難なのだそうだ」

「どんな特別な技術なんだろうね?彫り物には詳しくないからなぁ」


 もはや拳の内側には食い込んだ爪の痕が出来ていようが、中嗣は拳の力を緩めることが出来なかった。

 意識では、背中から伝わる熱を避けるために、懸命に会話に集中しようと試みている。中嗣にとっては華月の声だって愛しいものだから、それに耳を傾けることは簡単なのだけれど。

 それでも強い刺激が必要だったということだ。

 それもこれも、どれだけこの男が耐えてきたか、その長い日々を想えば、仕方のないことかもしれない。



「罪人に彫り物を入れているところなら、見たことがある」


 興味津々で華月はどんなものかと聞いてきたので、これ幸いと中嗣は詳しく説明をしていく。

 しかし中嗣は冷静さに欠けていた。


「針で傷を付けて、そこに墨を流し込んでいくのだが……」


 中嗣は己が痛みを求めるあまり、詳しく語り過ぎてしまったのだ。

 これで華月の指の動きは止まったのだが、縋る気持ちからなのか、華月は桔梗の印から手を離さなくなってしまい、中嗣はまだ耐えねばならなくなる。


「聞いているだけでも苦しいのに、中嗣はよくその場を見ていられたね」

「すまない。語り過ぎてしまった。あのときは、己で捕らえた者の行く末を見たいと思っただけなのだが。君に辛い想像をさせてしまい、本当にすまないね」


 己がいかに熱に魘されていたか。痛感し、反省した中嗣は、冷静になれたと思い安堵し、そしてこれからは同じ失態を犯さぬように己を諫めることを強く決意するのだが。


「うぅん。聞いたのは、私だもの。中嗣がそういうものを見てきたと知れたのも良かったよ。話してくれてありがとうね」


 これから見せるもので、中嗣が卒倒するようなことはないだろう。この新たな安心材料は、華月に勇気を与えるものだった。

 それでもあと少し甘えたかったのか。

 華月の指が再び印を撫で始めたおかげで、中嗣の拳には再度力が入ってしまう。たった今した決意は、どこへ行ったのか。

 あとで華月が食い込んだ爪痕に気付いたら、何をしているのだと叱られようし、もしかしたら傷を見たせいかと心を痛めるかもしれないのに、今の中嗣にそこまでの気は回らなかった。



 いっそ順序を違え、先に親密な関係になってしまえば。

 その過程で傷を見てしまえば。

 華月も随分と楽になるのでは?


 その妄言を必死に抑え込んで、中嗣はまだ続く華月の声に耳を傾ける。




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