12.あなたの背負うもの
「こんなに美しいものだったなんて!」
その驚いた若い娘の声は、二階の三つ続く部屋の隅々まで行きわたり、階下にも届けられた。
一階の店先には珍しく客がいて、玉翠の他に、羅生ではない男の声が二階にも届いていたので、その者を驚かせてしまったかもしれない。
中嗣は注意深く遠い声の主を探りながら、最も近くで愛しい人の声を聞いていた。
「それほどに美しいか?」
「うん。とても綺麗だよ。もっと早く見せて貰えば良かったなぁ」
華月がまじまじと眺めるそれは、瑠璃色の花である。
中嗣の背中の真ん中に、瑠璃色の墨で描かれた一輪の花が咲いていたのだ。
「これは……桔梗?」
首を傾げながら華月が問えば、中嗣には何故か見ずともその様子が想像出来ていた。そしてその想像した華月に心の内だけで身悶える。
背を向けていたことで油断していたのだろう。中嗣はとろけた笑顔を浮かべ、それは幸せそうに華月を褒めるのであった。
「さすが華月だ。可憐な君に相応しく、花にも詳しいとはね……」
と何やら続いた賛美の言葉を華月はすべて流し「中の家は桔梗の花だった」という中嗣の言葉だけを意識に拾い上げる。
「中の家はということは、もしかして家ごとに花が違っているの?」
「家々に継ぐ花が決まっているのだよ。自分では見たことがなかったか?」
「あるということは知っていたけれど、よく見えない場所にあるでしょう?」
中嗣は頷くと、「確かになかなか見られる場所ではなかったね」と肯定する。
華月は共に過ごしていた子どもたちにも、背中をあまり見せないようにしてきたので、それが花だと指摘されたこともなかった。
今になって思えばそれは、不自然極まりないことである。
「入れる場所にも何か特別な意味があったりするの?」
「心の蔵の裏側に入れることで、守り神になると信じられているね」
「守り神って?」
「この印が病などから身を守るから、印ある者は健やかに長く生きられるという話があるのだよ」
「それは本当なの?」
中嗣が首を捻りながら、「さて。記憶にある限り、印ある官は事故などを除いて長くご存命である印象はあるが。だからと言って、印の効果が真実だとは言い難いね。何せ、私もよく風邪を引いてきただろう?」と言えば、華月は大きく頷いた。
「そうだよね。これで病から守られるなら、中嗣が風邪を引くなんておかしいもの」
「そもそもこれが病に効くとすれば、医官が薬を煎じることもなくなろう。ところが季節の変わり目や冬になると、体調を崩した官が黄玉御殿に集うことになる」
「それを聞いてしまうと、何の効果もなさそうだね」
「すべての官に印があるわけではないが、過剰に期待すべきものではないだろうね」
華月はここでも驚いた。
官には皆、印があると思い込んでいたのだ。
「印を刻む者は、古くから宮中に関わりある家に生まれたものに限られているのだよ。だから官が皆、印を持っているわけではなくてね」
「そうだったんだ。でもその人たちも、風邪を引くのね?」
「あぁ。私のように」
華月は小首を傾げて、「もしも本当に病に効くのなら、決まった家に限らずに、どんどん広めたらいいのにね」と呟いて、そこからは楽しそうに先を続けた。
「この世から病になる者が消えて、医者が怪我の治療だけに集中するようになったら、他国よりも医術が発展したりしないかなぁ」
その普段の華月らしい言葉には、中嗣も柔らかく微笑んでしまう。話が本題から逸れていくと分かっていたが、しばしこれに付き合いたいと中嗣は願った。
「余裕の出来た街医者からならば、医術の発展が見込めるかもしれないね」
「街医者からって?医官からはそうはならないということ?」
「医官に限らぬことだが、高位の官ほど他国から学ぶことを厭うているのだよ」
「それで灌漑技術を試そうとするだけで、あちこちから不満が出ていたの?」
「総じて皆が無駄なことはするなと言っていたが、そういう意識からの不満もあっただろうね。彼らからすると、他国の真似などけしからんと言うことなのだよ」
「優れた技術があるなら、どこのものでもそれをどんどん活用すればいいのにねぇ」
中嗣は「その通りだ」と自身の意志としては華月の意見に賛同するも、宮中の現状を正直に伝えるのだった。
「宮中には、古から続くものを守る方向へと尽力する大きな流れのようなものがあってね。これは医官も同じで、だからこそ異国の医術書などを本気で読み込む者がいないのだよ。これまでの技術を継承することには熱心なのだが、新しき技術の開発となると、それをしようとするだけで大きな反発を生むことになるだろう」
「羅生は異国の医術を毛嫌いしていないし、むしろ喜んで学んでいるところがあるよね?新しい医術だって、きっと嬉しそうに開発すると思うなぁ」
「彼は宮中でも変わり者だから、医官としては参考にならないのだよ」
羅生の皮肉気に笑う顔を思い出して、まぁ、確かにそうだ、と思う華月だった。羅生はとても華月の知るところの官らしくない。
しかし今は長く話題にする男でもないので、華月の意識は目の前の桔梗へとすぐに戻った。