18.察しろと言われているのでしょう
はじまりは、文大臣羅賢の孫娘らのある望みから――
思わぬことに華月が落ち着くと、利雪らは以前も案内された離れにて話を聞くことになった。
狭い部屋で男四人、女一人。座布団が五枚用意されていたのだから、すでに今日、ここに利雪らが来ることは決まっていたのだ。人数分あるのも、今宵は同等に語ろうというところか。
羅生の説明はこうだ。
皇帝の側妃となった二人の孫娘は、一度のお渡りもない状況に苦悩するうち、皇帝の寵愛を受ける正妃を逆恨みするようになる。そしてある日、正妃を暗殺してくれと侍女を通して祖父に泣き付いた。
「老いとは恐ろしいものですぞ。孫娘らのどんな望みでも叶えてやりたいと思うようになりました。私はもう、国を動かす側にあってはならない」
かくして羅賢は、家の者らの選別を始めることになる。
「ここだけの話だが、正妃様を暗殺し、羅の名を世に揺るぎないものにしようと思う。手を貸す気はあるか?」
同じ言葉を繰り返すほどに、羅賢は絶望した。
彼に異論を唱えた者はただ一人。それこそが、孫であり、五位医官の羅生だったのだ。
羅生はこうして、羅賢の真の謀に加わることになる。
「華月はどうして羅賢様と共に?」
何故文大臣が、写本師である華月を知っているのか。
何か特別な仲だとしても、宮中と羅の家の問題に華月が手を貸す必要はどこにあったのか。
さっぱりと分からず、利雪は素直に問うた。
「こちらでの飲み仲間です。羅賢殿はよくこの大広間で、身分を隠して楽しんでおられました」
泣いた直後の、これまで聞いたことのない華月のか細い声に、利雪はそっと胸を痛める。おかしいと感じたのに悪いことをした気になって、さらに問い詰めるようなことは出来なかった。宗葉も同じだ。
それで利雪はあえて華月を見ないようにして羅生に問い掛ける。
「ここで心中騒ぎがあったというのも、偽りでしょうか?」
「あれは偶然を利用しただけのこと。朱雀楼で心中事件がありましてな。おや、朱雀楼を知らない?それは勿体ないことです」
逢天楼と並ぶ、三大妓楼屋のひとつ、『朱雀楼』。そこで遊女と客の心中事件があった。華月は朱雀楼では何もしていないが、その事件を利用して遊女らが客に噂を流す。
すると皇帝は計画通りに興味を示し、利雪らを逢天楼に送った。
「しかしながら、華月殿が私よりもずっと医に長けていることは真実ですぞ。お恥ずかしながら、あの第三集の知識など、華月殿に言われるまでは学ぼうとしたことがありません。あのようにおぞましい書ですから、細部まで目を通している医官などまずいないのです。だから宮中のどの医官にも、正妃様の症状を見極められる者がおりませんでした」
話は続く。
やって来た利雪と宗葉を、これまた計画通りに胡蝶が誘導し、羅生と華月に一芝居行わせることで、羅の者らを欺き、正妃を救い出す。
そのような計画だったと羅生は説明するのだ。
利雪がこのような説明に納得するはずもなかった。
「だからと言って、どうして毒など使ったのです?正妃様に何かあっては大変でしょう。未遂といえどもこれはあまりに……」
「コハンナナはそう悪い毒ではないのですぞ。あれは眠り薬のようなもので、使い様によっては養生薬にもなりましてな。よほど長く使わなければ死に至ることはありません。まぁ、西国では殺すというより眠らせることが目的で、もっと恐ろしいことに使っているようですが。あの記述はなかなか……」
西国ではとても良くないことに使われている毒薬なのだろう。羅生は最後には皮肉的に口角を上げながらも、その先を濁した。
「つまり、あなたが薬を与えていたのですか?」
「まさか。毒薬を仕込んだのは私ではありません。私は医官として正しく正妃様を診療していただけです。羅の家の私が言ったことは、羅の者たちにとって真実になりますからね」
「そうだとしても、やはり分かりません。何故暗殺未遂事件を引き起こす必要が?計画に乗った者を個別に諫めれば、それでよかったのではありませんか?」
「祖父は最後まで試しておりましたようでしてな。誰かひとりでも、こんなことは良くないと止めるのではないかと。いいや、全員で反対してはくれないか。そういう期待と願いを込めていたのでしょう」
「それにしても……」
まだ利雪が問おうとすると、羅生は大仰に首を振るのだ。
「ありがたいことに我が家の者の多くが、良き地位を与えられておりました。地位ある者が正妃様の暗殺を拒まない。これが近い将来何を引き起こすか、お二人にも分かりましょう」
ここで利雪は、羅生が事情を説明する相手として中嗣を含めていないことを知る。
今宵の席は、利雪と宗葉のためだけに用意されたものなのだ。
そういう意味であるならば……利雪はどこまで問うべきか迷い始めていた。
「お分かりのように、側妃となった従姉妹らには手を出すことが出来ません。羅の家の出であるとしても、あれはもう主上さまのものです。出来ることと言えば、諫め、説得するくらいのもの。しかしそれをする立場にあるはずの、羅の家の者たちが同調し、共に悪だくみを始めるのですから。祖父なりに考えた結果なのでしょう」
何のための席か分からぬ宗葉は首を捻るばかり。
理解が何ひとつ追い付かないのは、自分の頭が足りないせいかと自信まで失っている。
「心配は無用ですぞ。我が従姉妹たちは、揃って心を病みましてな。主上さまのお渡りを望むような状況にはありません。これ以上の馬鹿なことは考えますまい」
利雪はどうしてもあとひとつだけ、聞いてみたくなった。
「もうひとつ、教えてください。羅生殿にはこの計画に参加するにあたり、十分な対価があったのですね?」
羅生は一度にやりと笑ったから、利雪は驚く。
場違いなその笑みは不気味なものだったが、利雪には伝わるものがあった。
「そうですな。私にはあの屋敷の者たちにさほどの思い入れがなかったと言いましょうか。それに祖父は病を患っておりましてね。そう長くはなかったのです」
「なんと……」
これでまた話が変わってくる。
宗葉は分からないなりに、病気故におかしなことを考えてしまったのかと納得し始めていた。
「羅賢殿からの最後の贈りものだったのです」
華月の小さな声を受けて、隣に座る中嗣は彼女の背中を優しく撫でるのだった。
羅生が付け加えて言うところでは、孫娘達の願いを断れぬようになった老いた羅賢が、それでも二人に残そうとしたもの。
「もしもまだ彼女らが何も変わらなかったときには、中嗣様にお任せしたいと申しておりました」
言った羅生は、中嗣に体を向き直すと、床に手を付いて頭を下げ、さらに続けた。
「わたくしも、いかなる罰も受ける所存です」
正妃に毒を盛ったのが誰であれ、それを知っていて止めなかった罪は重い。
ここで華月は中嗣の袖を引き、二人はしばし見つめ合った。中嗣はしばらく華月の潤んだ瞳に見惚れていたが、やがて苦笑を漏らす。
「どうやら私は、羅賢殿に遠く及ばない」
中嗣はそれから羅生を見ると、いつも宮中で見せているような爽やかな顔で笑った。
「この話はここだけに留めよう。君のような優秀な医官をここで失うわけにはいかないからね」
「よろしいので?」
「あぁ。此度の件で、宮中の医官らの無能さが露呈した。君にはこれからも宮中に留まって、医官の能力向上に貢献して欲しい」
「従います」
中嗣はそれから、「これまでのように楽な道ではないよ」と付け加えることも忘れない。羅の家の恩恵は消えたのだ。
「中嗣様のように、これからは己の力のみで生きてみせましょう」
羅生は力強く言った。元からの精悍な顔立ちが、彼に一切の迷いがないことを強調している。
「利雪、宗葉」
姿勢を崩していたわけではないが、利雪と宗葉の背筋がピンと伸びた。「はい」という二人からの返事が重なる。
「この件は他言無用で願いたい。約束してくれるだろうか?」
「もちろんです」
「今宵聞いたことは、誰にも語りません」
利雪は憧れの写本師殿に危険を与えるようなことをする男ではなかった。
宗葉にそこまでの想いはなくも、元から揉め事は嫌いだ。断る理由もない。
「それから君たちには、これからは私の下で働いて貰いたい。異論はないだろうか?」
「中嗣様の下で働けるのですか?」
「ありがたいことに、上からの提案があってね」
中嗣の上と言ったら、いまだ文次官にある覚栄だろうか。文大臣が不在となって、覚栄は文大臣代理の立場を務めているが、あくまで代理で、文次官のままだった。時期を見て、文大臣に昇格するのではと言われているが、はたしてどうなるか。
三位の中嗣が文次官になるという噂もあるが、他にも三位の官はいるし、家の問題を考えると中嗣はないのではという声が強い。
落ち着いてきたものの、紅玉御殿は完全に正常化しているとは言えなかった。それだけ羅賢の消えた穴は大きい。
あるいは皇帝。
利雪らは不思議に思うことがある。あれから皇帝からのお声掛けがないのだ。頻繁に呼び出されていたそれがなくなると、何か不興を買ったのではないかと心配にもなってくるが、それならそれで何も言って来ない皇帝ではないとも思う二人だった。
もしその皇帝が利雪らの処遇を中嗣に頼んだのであれば、利雪には願ってもないことである。
噂を聞く限り、中嗣の仕事振りは、利雪には理想的だ。
だが宗葉は……少々顔色が悪いものの、利雪に続き中嗣の提案に同意した。
「聡明な中嗣様の下で働きたいと常々思っておりました。よろしければ、私を御遣いになってください」
「私も同様の想いです。中嗣様のお世話になりたいと願います」
「では現在の仕事の引継ぎを終え次第、よろしく頼むよ」
利雪はまだ迷っていた。
今宵聞こうとしなければ、この先真実を願うことは出来ないように思う。
亡き羅賢には今宵語られなかった目的があったはずだ。
それがまだ聞いてはいけないものなのか、それとも生涯知ってはいけないものなのか……
「もっと沢山話したいことがあったのに……」
絞り出すような声に顔を上げれば、華月の頬を涙が伝っていて、利雪の迷いが掻き消される。
「私は何も出来なかったよ、中嗣」
「それはいかん。我が祖父はとても満足していたのだから」
中嗣が何か言うより早く、羅生は続けた。
「華月殿の話し相手ならば、祖父の代わりに私が努めよう。未熟者だが、医術書のことならば、祖父よりもずっとよく語り合えようぞ」
利雪は自然に考えを中断し、羅生のあとに続いていた。宗葉もこれを追い掛ける。
「華月殿とは、これから書の話を沢山したいと願っています。ご一緒していただけるでしょうか?」
「書のことはあまり分からんが、ともに楽しく酒は飲めよう。茶屋でも、ここでも、いつでもご一緒しようぞ」
一層甘い声で、最後に言ったのは中嗣だ。
「華月には、私という素晴らしい話し相手がいるではないか。君が悲しくないように、これまで以上に会うことにしよう」
「中嗣はいいよ。いつも通りで」という言葉とは裏腹に、華月は中嗣の胸にしがみ付くと、わんわんと泣いた。その幼い泣き方は、それぞれの胸を打つ。
ひとしきり泣いて疲れたのだろう。
やがて腕の中で眠りに落ちた華月を、中嗣は愛おしそうに抱いていた。狭い部屋に一定の間隔で寝息が響くようになると、何故か全員が一様に安堵していく。
何を思ったか、羅生がゆらりと立ち上がり襖を開けた。それは外の庭に続く襖で、羅生はそのまま空を見上げる。
瞬く星の中に何かを探すように立ち尽くしていたが、突然振り返ると、羅生は笑って言った。
「もうひとつ、我が祖父から中嗣様に言伝が御座いました。お聞きになります?」
羅生の声が、意地の悪さを含んでいる。
計画に乗ったときには覚悟を決めていたからか。弔いがすでに終わったような晴れやかな顔には、少しの陰りも感じない。
考えてみると、羅生は祖父を亡くしただけではない。父や叔父、従兄弟などを一斉に亡くしたことになる。共に亡くなったと思われる屋敷の下働きの者たちにも、よく知った者がいたのではないか。遺体は宮中から消えた官では足りず、それ以上にあったのだから。
しかし羅生は一切それを感じさせない顔で笑っている。
「聞かない選択肢はあるのか?」
「ありませんな。文句はあの世で祖父に伝えてくだされ」
「今すぐ伝えたいことは沢山あるのだけれどね。どうしたらお会い出来ようか」
「満足のいく結果がないと、あの世に近付くことも許されないと思いますぞ」
「あの世での羅賢殿がそれほどの権限を持っているかは、はなはだ疑問だが。それで?」
羅生はわざとらしく一呼吸置くと、にやつきながら言った。
「娘一人どうにもならんうちは半人前だ。早う一人前になれ。だそうです」
中嗣は、小さく笑った。
笑えたのは、腕の中に眠る娘がたっぷりと泣いてくれたからだろうか。
「半人前か。私とて、まだまだ教えを頂きたいと願っていたよ」
その声を優しい春風がさらっていく。