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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第八章 はかるもの
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10.先に砂糖菓子を含んでおきましょう



 娘を膝に抱えた男は、不気味なほどにご機嫌な笑みを浮かべ、喜びを隠し切れていなかった。むしろ隠す気もないのだろう。

 運んだ状態でそのままに腰を下ろしたから、華月は今、中嗣の膝に横向きに腰掛けた状態だった。おかげで互いの顔がよく見られる。


「ねぇ、中嗣。そろそろ落ち着いて?」


 これを言うべきは私なのかと、誰でもなく華月自身が疑問を抱きながら、そう言った。

 彼女の目に映る中嗣の顔は、長く濡れた麩よりもふやけ切った笑顔で、もうしばしすれば本当に皮膚が溶けてなくなってしまうのではないかと華月を本気で心配させるものがある。


「私は落ち着いているとも」

「そうは見えないのだけれど。本当に大丈夫なの?」


 ふふふと不気味に笑う中嗣の声は踊り、今にも歌い出しそうだった。

 対処出来かねる事態には、華月もその身に起きた問題を一時的に忘れるくらいに疲弊している。


「仕事で何かいいことでもあった?」


 それが的外れであることを知っていながら、中嗣の正気を取り戻すために華月はあえてそう言った。

 しかし中嗣の顔は緩んだままで変わらない。


「仕事?あぁ、仕事か。そういえば、そんなこともしてきたね」


 宮中を思い出しても、顔が戻らないとは。

 いよいよ重症だと悟り、華月はこれからどうやって真面目な話を始めたら良いものかと思案する。

 そもそもの問題として、何を語るべきか、そしてどう語るか、といったところまで思案出来ていないのだから。中嗣が正気に戻っても、今日の説明については少しの時間を置くようにお願いしたいと考えていたのである。

 そこまでの会話の道筋が……この中嗣相手だと見えない華月であった。



「華月。順序など気にしなくていいよ」


 ぽかんと口を半開きにした華月は、中嗣の顔を凝視した。

 どうやら男は正気に戻ったわけではなく、心底嬉しそうな笑顔を浮かべていて、しかも華月の頬を愛おしそうに撫でていく。


 しかし華月は中嗣の機嫌に反発するように、眉間に皺を寄せ、口を堅く閉じてしまった。


「君だって、もう全部語ろうと思っていただろう?だから順序など考えなくていいのだよ」

「先に確認したいことが沢山あるの」

「それだって共に確認していけばいいよ。そうだね?」


 街の人たちは金塊を貰ったときに、これほど喜ぶだろうか。

 華月は今の中嗣ほどに嬉しそうな笑顔を他で見たことがなかったので、どうすれば他者に同じ顔を見せて貰えるかと想像してみたのである。


 金塊でないとしたら……書?いや、書は私が嬉しいだけだ。

 それでもここまで嬉しそうな顔はしていないと思う。


 そこでついに華月は聞いた。返事を誤魔化してなんかいないんだからね、と心の中で宣言しながらである。



「ねぇ、どうしてそんなに嬉しそうなの?」


 思いがけない問いだったのだろう。中嗣は一時そのふやけた顔に驚いた色を示すも、すぐに破顔した。嬉しさが溢れて、己でも制御出来ない状態なのだ。


「それはきっと、君が飛んで来てくれたからだね」

「あれは……その……」


 思いがけず話題が変わらなかったことに華月は言い淀むも、それでも中嗣は嬉しそうに笑っていた。


「私を頼ってくれて嬉しかったよ。ありがとう、華月。だけど、すまなかったね」

「え?」

「今まで長く一人で苦しませてしまっただろう?だがこれからは、今度こそ、共にあれるね?もう一人では苦しませないと約束するよ」


 これでもかと親指で頬を撫でられていた華月は、観念したかのように、優しく、そして切なさをたっぷり含んだ顔で微笑んだ。

 途端、中嗣の胸がぎゅっと詰まり、ふやけていた顔が引き締まる。


「お礼を言うのは私の方だよ。ありがとう、中嗣」


 涙はなくも、今にも儚くなってしまいそうな泣き笑いの顔をして、華月はさらに言うのだ。


「今日は本当に帰って来てくれて嬉しかった。それで気が付いたの。中嗣がいなかったら、羅賢のときにはもう……こんな風にしていられなかったと思うんだ。だから、こんな私といつも一緒に居てくれてありがとうね」


 突然に強く抱き締められて、華月が「わっ」と声を漏らしたが、それからはおとなしかった。

 それでも沈黙を破り、先に言葉を紡いだのは、華月である。


「中嗣に確認したいことがあります」

「あぁ」

「それから、見て欲しいものもあります」

「あぁ」

「それから……」


 中嗣の手が華月の頭をゆっくりと撫で始めた。それは励ましのようで。

 華月は小さき声ながら、言葉の先を伝えることが出来た。


「中嗣はまだ見たいと思っていますか?」


 どうして敬語なのだろう。

 それは言っている華月が強く問いたいところで、一方聞いている中嗣は、そんな華月が可愛らしいと喜んでいただけだった。


「それはいつまでも変わらないよ、華月。君のことで知りたいと願わないことは、私にはひとつもないからね」

「分かった。でも先に確認したい……です」


 よしよし、と声を掛けながら、中嗣は華月をぎゅうぎゅうと強く抱きしめ、頭に加えて、その背も撫で始めた。

 かつてなら抵抗していた華月も、身動き一つせずに受け入れている。それがまた中嗣を喜ばせるも、これを終わらせるには中嗣の意志が必要となるということでもあって……


「よし」


 意気込んでそう言った中嗣は、「話すとしようか。何を聞きたいのかな?」と優しい声で付け加えた。


 これを言うために中嗣は抱き締めることは辞めたものの、その膝から華月を降ろすことはしなかった。

 華月もまた動かなかったので、二人はこのまま語り合うことが決定する。



「まずはその書のことで聞きたいことがあるの」


 華月が先ほど床に落とした書を指せば、中嗣が腕を伸ばしてそれを手に取った。


 最後に与えられたものが、初手となるとは。

 これもあの老人の策のうちだろうか。

 一体いつから、そしてどこまで――


 中嗣の瞳の奥には、焼け落ちなかった桜の樹が記憶から映り込んでいる。



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