9.暗雲を吹き飛ばす一筋の光
話は半刻程前に遡る。
華月は二階の自室にて本日二冊目の写本を終えたところだった。次の依頼の書に手を掛けながら、そっと窓の外を眺め、太陽の位置を確認した彼女は首を振って筆を置いた。
朝から望んでもいないのに今日の予定を事細かく聞かされていたことで、そろそろすべてが終わり帰って来ると予感したからだ。
その予感と共に仕事を切り上げたことを誰かが指摘していたら、彼女はいつも通り「別に待っていなかったんだからね」と怒っていたに違いない。
そんな彼女にも自身で事実に気付くときが来ていた――。
◇◇◇
今宵は妓楼屋に行く約束をしている。だから、そろそろ帰って来るはずだ。
彼のことだから、少し時間を置いてから妓楼屋に向かうに決まっている。夜遅くまで遊べるようにと、昼寝を提案してくるに違いない。それでこちらの意見をひとつも聞かずに、半ば強制的に眠らせられるのだ。
というわけで、切りのいいところで仕事を終えられたので、自由な今のうちに書を読むことにした。
どうせ妓楼屋でも、美鈴の膝を枕に書を読んではいられないのだから。
迷いなく中嗣から借りている異国の書を手に取って、床に転がった。いずれにせよ、この書は外では読めないものである。
読むと言ったが、どの頁にも読める字はない。それでも私にとっては楽しい読書の時間だ。
これらの字に、どんな法則が隠されているのだろう。
誰がどんな意味を込めて、書いたものなのだろうか。
どんな音で、これを伝えるのだろう。
生じる疑問の答えを西国の知ったいくつかの言語から想像していくと、最後にはどれも違う気がしてその想像を打ち消すことになる。
それでもまた次の想像は簡単に膨らんで、どんな的外れな考えから始めてみても、いくらでも楽しむことが出来るのだった。
それは書を開いてから、数十の頁を眺め終えたあとで、両手では足りない数の想像を終えたあとのことだった。
頁を繰った瞬間に、私は目を見開いてしまう。
これまでの頁とは、明らかに質が異なるそこには、字ではなく円形の図がいくつも並んでいた。
ただの線と塗り潰しで描かれた幾何学模様かと思いきや、すべてが小さな字の集まりで出来ていることが私にはすぐに見て取れた。
それは私だから早く気が付けたのか。それとも誰でも気が付くことなのか。
その細かい文字が、これまで同じ書の幾重の頁で見てきた字とは一致しないものであることには、少しの間を置いて気付くことになる。
視界が霞んで来たのかと思ったが、指先が震えていたのだった。いや、腕が、いや、体が、全身が震えている。
私は今、この図形を冷静に分析出来るくらいに頭が働いていると信じているが、同時にそのように偽りたいと願って必死にその図形についての考察をしていることにも気付いていた。
頭に体が倣わないし、体に従うことを頭は拒絶する。
「どうして……」
かすれた声が耳に届いて、声に出していたことに気が付いた。
ごくりと唾を飲み込めば、喉がからからに乾いていたことにも気付く。
「これを見ていない……?」
またしてもかすれていたその声が、今度はやけに大きく聞こえて、また声に出していたことに遅れて気が付いた。
そして何故か、私はそのまま声を出し続ける。
「違う。見ている。でも、貸してくれた。それならこれは……」
先に腹が痛んだ。
それに追従するように、両の太腿が痛み始める。
「すべてが……間違っていた?」
震える声はどうしてこうも大きく耳に届くのだろう。
自分の声であるはずなのに、他人が耳元で囁いていたように聞こえたのは何故か。
ごとっと音がして、書が床に滑り、私は手から書が離れたことを知った。
いけない。借りた書は大事にしないと。そう思うけれど、書が拾えず、手が思うように動かないことを知る。
これは本当にいけない。
頭の中でぐるぐると言葉が巡り始めた。
不思議と写本をしているように、言葉は文字列となって視覚的に脳内を流れていく。
西国にあるという薬草のコハンナナ。
西国医術書の第三集。
ちょうど良く現れた西国の商船。
そしてうんと西の国のものだと言われる読めない書。
西国。西国。西国。西国。
国名ひとつ決められない脆弱な国。
それはいくつもの部族が領土を奪い合い長く争い続けたせいだと言われている。
ようやく結ばれた停戦協定の後に、事実上の連合国家制を採用したはずだった。ところが協議という協議が部族間の争いのままに終わり、結論がまとまらない。
これをひとつの国と呼んで良いものか。
我が国がそれを西国と呼称したように、周辺国ではその辺りで停戦協定を結んだ小国を総じて一つの名を与えていると聞く。つまり周りの国々が勝手に名を付けて呼んでいるということだ。
そんな国だから、西国には文字の種別も多い。
揉めている部族間で同じ文字を使うことを厭うたのだろう。戦略的な意味もあったはずだ。
成り立ちも発音も異なるそれらの文字は、私をよく楽しませてくれた。
あの医術書は、本当はどこの国のものだったか。
コハンナナは、あの商船は、西のどの国のものだった?どの字を使っていた?
そしてこれは?
何度も見てきた他人の印。
念を押すように言い聞かせられてきた印の意味。
それを文次官にまでなった人が知らないという事実。
炎。赤い蛇。黒い靄。白い靄。火傷痕。黒い痣。
怪我をしてから買い取られたこと。写本師という仕事。
妓楼屋。皆の買い取り先。羅賢とのお遊び。羅の家の焼失。
消えた人々――。
「まさか、まさか」
言わずにいられないのか、口から震えた音が漏れていく。
そして私は、その音を別の誰かの声のようにやはり耳で聞いていた。
「子売り小屋は……あの場所は……」
思考というものは、どうしていつも勝手に巡り行くのだろう。
望んでいるときには、その答えをひとつも手に届けてはくれないのに。
腹と太腿が痛むだけで終わらなかった。
まるで示し合わせたように、同じ拍子で頭まで痛くなる。
ずきん、ずきん。ずきん、ずきん。
もはやどこが痛いのか分からない。
痛みに合わせて記憶が溢れ、それが激流となって脳から全身へと向かい、体中を撃ち付けているようだった。
白い靄は完全に消えてしまった。
待っていたとばかりに、黒い靄が広がっていく。懐かしくて、忌々しくて、そして悲しい靄だ。
すべてが私のせいだった。
私はそれを知っていた。
それなのにどうして私はここにいる――?
あぁ、闇に落ちてしまう。また私はあの頃に戻るのだ。
そこにあの人の声が届いた。