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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第八章 はかるもの
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8.女神が降って来た日


 女神が降って来た。

 後でそう言ったのは、中嗣である。


 文字通り彼にとって()()の女神は、この日、高いところから彼の胸に飛び込んで来たのだった。



 ◇◇◇



 それは羅生との長い雑談を終えて、煎餅の土産を片手に持った中嗣が意気揚々と先頭を切り、写本屋の暖簾をくぐったあとのことである。

 もうすっかり中嗣の顔は、外で見せていた顔と変わり、緩み切った朗らかな笑みに包まれていた。


 いつも通り客もなく、番台に座る玉翠の姿を見付ければ、普段と同じく中嗣は二、三の挨拶を交わしながら、土産の煎餅を手渡し、履き物を脱ぐ。


「ただいま」


 中嗣はいつも、それは大きな声で伝えるようにしていた。

 幼い頃から宮中で過ごしてきた中嗣には、ただいまを言える場所も相手も長く存在せず、だから嬉しいという気持ちもあってついつい声が大きくなるのだが、もちろんそれだけのことではない。目の前の玉翠を越えて、二階の華月に届くように言っていれば、必然的に声は大きくなる。


 ただし華月は、写本や読書に集中していると、どれだけ大きな声を掛けようと気付くことはない。


「華月は仕事中かな?」

「えぇ。今日は朝から頑張っておりまして、そろそろ休ませたいところです」


 その役目喜んで承ったと頷けば、中嗣の顔は自然、二階へ向かい。

 すでに連れて来た羅生の存在も忘れて、脱いだ履き物を土間に残し、上がり框を越えていく。


 二階でバタバタと物音がし始めて、中嗣は慌てて同じような音を立てて階段下まで移動した。


「華月。私が――」


 階段上に華月の足が見えたとき、中嗣はこちらから行くから待つようにと伝えたかったのだが、言い終えることは出来ず。

 華月は躊躇うことを知らず、そのまま駆け下りて来た。すでにあり得ないことが起こっている。

 

 そして残りの階段がまだ五段はあるところで、華月が飛んだ。

 転んだのではない。踏板を蹴って飛んだのだ。


 中嗣は一段目に右足を掛けていたところで、両腕を広げて華月を受け止めた。


 まさに中嗣にとっての女神が降ってきた瞬間である。



 あんぐりと目と口を開けて呆けているのは、まだ土間に立っていた羅生。そして玉翠も番台に座ったまま振り返り、似たような顔で二人を見ていた。


 首に巻かれた腕が力を増したことで、中嗣はおおよそを理解したかのように、抱えたまま華月の背中を優しく撫で始める。


「君は昔とは違う。もう出来ることが沢山あることを知っているね?」


 華月の前では違うことを知っていた羅生や玉翠でも知らないほどの優しい声で言った中嗣は、華月が何も言わずとも、同じ声でさらに言った。


「大丈夫。君は変わっているよ。そしてこれからも変わっていく。私と共に出来ることを増やしていこう、華月」


 やがて華月からも声がした。それはそれは小さな声であったが、中嗣の耳元にあっては彼に届かないことはない。


「ありがとう。急にごめんね。もう平気だから降りるよ」

「しばしこのままでいよう。二階が大変なことになっているのではないね?」

「うぅん。()()()()何もない」

「それなら二階がいいね」


 華月の声を聞けただけで、中嗣は心から安堵して、軽く振り返り羅生を見やった。

 その動きで、華月も気付く。


「あっ」


 顔を上げた華月は、土間に立つ羅生と番台に座る玉翠の視線を受けて、すぐに中嗣の肩にその顔を隠した。


 いつから、こうなのか。

 羅生は普段から二人がこのように激しい帰宅の挨拶を交わしているのではと疑って玉翠を見たが、玉翠の驚愕した顔を見て、そうではないのだと気が付く。

 何か起こっているならば、羅生がすることはひとつ。


「羅生。せっかく共に来てくれたところ悪いが、少ししたら声を掛けるから、客間でゆっくりしていてくれるね?」

「えぇ。玉翠殿とのんびりさせていただきますよ。好きにしておりますから、今日は私のことなど忘れて過ごしても構いません。どうぞ、ごゆるりと」


 中嗣は頷くと、華月を抱えやすいように手の位置を変えつつ、階段を上がっていく。

 玉翠は何も言わなかったし、二階に運ばれていく華月が再び顔を上げることもなかった。




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