2.まだまだ青いと笑ったのは誰か
誰からということも、我らに羅生を含むとも言っていないのに、羅生のそれは、思わず中嗣が足を止めそうになったほどの反応だった。
普段は何を言われてもへらへらと笑っていた男が、思い切り顔を歪めていたのだ。それは三歳児が癇癪を起した様子と違わなかった。
されども羅生は言葉では不満を表さず、いつも以上にへらっと笑うと、何でもないことのように話し出すのである。
「たとえば、邑昌様のことですな?」
この変わり身の早さに、羅生という男が普段見せている姿がどこにあるのかを認めた中嗣もまた、普段よりも柔らかく微笑んで頷いた。同質のものでも感じ取ったのだろう。
「あぁ。少なくとも、彼は愚者ではない」
「私もそう思いますがな。その息子と娘が愚者にしか見えなかった件は如何様に?」
中嗣が遠い目をして空を仰いだとき、ちょうど鳶が頭上の高いところを旋回しているところだった。
まるで誰かが、空からいつも見ている、と言っているように感じなくもない。
それはいささか感傷的になり過ぎだと、中嗣は首を振り、顎を引いた。
「彼らが演者だとしたら天晴れだな」
「それだけはありませんぞ」
「ついに言い切ったな」
「中嗣様はあれを疑えると?」
「いや、私にも無理だったよ。あれは流石に目立ち過ぎだ。演じられる器ならもっと上手くやるだろう」
疲れたように眉を顰めて前を向いた中嗣に、羅生は大仰に同意した。
「会話も成り立ちませんでしたからな。邑家の従者すら振り回していた奴らに、それほどの知恵があるとは思えません。されどだからこそ分からないわけですぞ、中嗣様。邑家は何をしたかったのだと思います?」
声に潜む苛立ちを感じ取って、中嗣は同情するように首を振った。
そして宥めるように、あえてこの場で羅生に問うてやる。
「あの二人は本当に邑昌殿の御子だと思うか?」
宮中には以前より噂があった。中嗣が華月に知らせた話である。
今回断罪された兄妹は、正妃様とは母が違うのではないか。武大臣がどこかに囲う娘に産ませた子ではなかったか。
されど、中嗣はこの噂を信じてはいないし、それは羅生も同じだ。では何故、この場所で口にしたのか。
「まったくもって好みではございませんが、あの無駄な見目の良さは母君から受け継いだものに違いありませんぞ。されども目元なども邑昌様に似ていなくもないですし、体格の良さや身のこなしに関しては邑昌様の御子と捉えても問題ないかと」
「では姉はどうだ?」
「やはり中嗣様もそちらをお疑いでしたか」
「誰しも思っていることではないか?」
「中嗣様くらいしか、口に出す者はありませんぞ」
「君の見解は?」
羅生はにやりと口角を上げると、淡々と意見した。躊躇う素振りも見せないのだから、流石である。
「あの二人と姉君は、あまりに似ておりませんでしたから、腹違いもあり得るかと。容姿も性質もまるで違っておられますし。ですがまぁ、こちらも邑昌殿には似ているように見受けられましたし、世には似ていない兄弟も数多おりますからな。医学的に彼らの血縁がどうこうと言えることはありませんぞ」
「系譜としては?」
「無論調べましたが、奥方様の方は正しくあれど、邑昌様は証明が難しいですからな。姉だけ違うというのは、無きにしも非ず」
「宮中に来られる前に、そのような相手がいたという噂はどうだ?」
羅生はわざとらしく大きく首を振ってみせた。
「かつて噂があったかどうかも不明ですぞ。今や、口に出来る者も御座いませんからな」
「君でも探れぬとなれば、かえって怪しくなるがね」
「おや?これは寛大なご評価を頂いているようで。身に余る光栄ですな」
羅生は自嘲するように笑ったが、中嗣はしばし己の思考の海に漂った。
正妃の出自を怪しむ発言は、不敬であって許されない。
だからこそ、あの弟と妹の方が母違いだと。そのように噂されるしかなかったのである。
だが正妃となる前ならば、どうだろう?その頃ならば、中嗣も記憶のある頃だ。
しかしながら、妙な噂はまだ流れてはいなかった。すでに立派な淑女になろうと期待される優秀な姉と、その弟妹の間には、歴然とした差が生じていたというのに。
噂されなかったのではなく、姉の出自を疑う発言が上がれば、すぐに物言えぬように手配したのではないか。
中嗣はどうしてもその考えに思い至るのである。
「お考えは分かりますが。万が一にも異母姉だとして、あの二人の母君に隠し通せるはずはありませんし、さすればその生家が黙っているとも思えませんぞ」
「それを言ってしまえば」
「えぇ。そもそも邑家は皇族には相応しくありませんな。それも現皇帝の正妃など、本来ならばあり得ないことです。それを押し通したのですから、あちらの家は正妃様を確かに正妻の子として認めているのでしょう」
二人の声は少し前より一段と低く変わっていた。それは互いの耳にだけよく届くよう配慮された音である。
それでもなお、すれ違い様に近寄る者があったときには言葉を止めていたし、さらには遠くから読唇術などで会話を読み取られないように、唇の動きも音に添わない形へと変えていた。
これらは一部の上位武官が好んで伝授している術であるが、二人は文官と医官。いくら中嗣がかつて武官をしていたと言っても、それは短い期間で、官位を上げるほどに長く青玉御殿に居座っていたわけではない。
それでどうしてこんなことが出来るのか、と知る者は宮中にどれだけ残っていようか。
「何かの条件があったのであれば、話も変わろう。かの人が長く大臣であり続ける理由と重なるものかどうか――」
かつて武功を立てた褒美として、武大臣に取り立てられたと聞く邑昌だが、それも何十年と前の話で、今なお武大臣を続ける理由としては弱いのではないか。戦のない平和な時代にはかつての武功など意味をなさず、しかも武大臣となってからは目立った成果を上げているとはとても言えないだろう。
そんな男が、なお武大臣であり続ける理由として、娘が正妃になる必要はあったかもしれない。
だが、彼女を正妃にと望んだのは皇帝だと言われている。
皇帝が長く邑家を取り立てるのは、何故なのか――。