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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第七章 ふれるもの
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25.忍び寄る影を知らず避ける男



 それは夕闇が落ちるまで、まだ少し時間が残るときだった。

 夕陽に紅く染まりし瑠璃川の河原に、背丈は大人ほどにあるものの、顔つきに少年の幼さを残した男が一人、


「なんでだよ?なんでだ?なんなんだ?」


 独り言と言うにはあまりに大きな声を吐きながら、足元から掴み上げた小石を川に向かって投げていた。


 たった今投げられた小石は、見事に三度紅き川面を飛び跳ねて、そこで急速に勢いを失い、水しぶきを上げて川の中へと沈んでいく。


 男の斜め後ろには、男が背負うに同じく夕陽を浴びた桜の樹が立ち、その枝々にぶら下がる蕾たちがふっくらと丸みを帯びて今か今かと開花のときを待ち詫びているのだが、この男がそれに気付くことはないだろう。

 元から自然を愛するような心根を持っては生まれていない。


「くそっ!分からねぇ!」


 長く同じ問いを呟いてきた男だが、結局は自身の問いに対する答えをひとつも見付けられず、至極無駄な時間を過ごした男は、ついに癇癪を起こす。


「俺のことだってそうだ。忘れていなけりゃあ、官と仲良くしろなんてあいつが言うはずはねぇ!あいつ、本当はあの前のことだって全部忘れちまったままなんじゃねぇか?それならそうと言ってくれりゃあ、俺だってこんなに長く避けることも……」


 叫びながら地団太を踏んでいた男の声から、突如として力が抜けた。後には頼りない、か細い声が続く。


「俺が年下だからか?そうだよな、齢が変わらねぇはずの岳なんかにもあのままなんだ。そりゃあ、俺なんか、あいつからしたら子どもに見えるだろうよ。実際、子どもだったんだからな。だからってだ。だからって、あのくそみてぇな官に向けてあんな顔を見せてやることは……」


 先に見たものを忘れようと、男は言葉を止めて、首をぶんぶんと勢いよく振るも、かえってその残像は頭にしがみ付くようにして、離れない。


 それは明らかに身のいい男と、若い娘……少しばかり娘らしくない恰好はしていたが、街によくある若い男女が逢瀬の時を楽しむ姿にしか見えなかった。

 彼らは人目も気にすることなく、仲睦まじく手を繋いで通りを歩き、共に笑い合っていたのである。


 見るも恥ずかしい、隣の男の締まりのない腑抜けた顔などどうでも良かった男だが、その時の娘の顔は気に食わない。

 男の長く知る娘は、あのような顔で笑わないからだ。


 今、この瞬間も、男の頭に浮かび続けるその笑顔が、男の心を搔き乱してやまないのである。


「くそっ。なんであいつは同意しねぇんだ!あいつの幸せを考えろだと?あんなもの、眉唾ものだ。どうせ俺たちが珍しくて、面白がっているだけだろう。すぐに飽きて、あちら側の女を選ぶに決まっている。そもそもあいつが官なんかといて、幸せになれるわけがねぇだろうが。岳もすっかり腑抜けちまって、世迷い事ばかり言いやがる。いいところに買われた奴らはもう駄目なんだな」


 では、その娘はどうなのだ?

 そして己は――と続けてしまえば、笑みも零れよう。


 男は小さく笑うと、胸元から長衣の内側に手を入れて何かを掴み、それを川へと投げようとした。


 しかし、それは固く握りしめられた男の手から離れない。

 振りきれなかった拳からは、木製の質素な簪の両端が覗いていた。


「あの頃に戻りたくないのかよ。なぁ、白。あの頃は、楽しかったじゃねぇか。あのまま皆で逃げちまって、一緒に暮らしていたら、一人も欠けねぇで、誰も変わらねぇまま、今も楽しくやっていたんだぜ。なのに、なんでだよ。身が良くなかったからこそ、今度こそ皆を集めてこの街を出て行けば……」


 その切ない訴えは、誰にも届いていなかったはずだ。

 

 人の気配を感じ取れない男ではない。

 いくら川が轟轟と唸りを上げて流れていたとしても。

 いくら風が穏やかとはとても言えない叫び声を上げていたとしても。

 小石を踏んで近付いて来る者の気配を読めないほどに、気を緩めて生きたことはなかった。


 たとえ先日、ただの医官である男と対峙して相手に一撃も与えられなかったとしても……

 たとえ、武官のわざとらしい体当たりを上手く避けられなかったとしても……

 あれはいずれも気を緩めていたのではなく、街での身分を意識して手加減してやっただけのこと。本気で彼らと戦えば武器などなくても勝っていたはずだ。


 何故か駆け巡る言い訳を心の内に流しながら、男は瑠璃川を挟んだどちら側にあろうと、自分は強くあって、もう誰のことも守れると自負している。


 それこそが、こんなにも長く心が搔き乱された一因となっていることに、男は気付かない。


 初めからすべてを持ち甘えて育ちながら、何故何も持たずに苦労したこちらより強くあるのか――。


 この疑問は、男にとってただ、ただ、憎いことだった。だから認められないでいる。その上に、さらにあの笑顔ときたら。

 男は憤り、もう一度手の中の物を投げようと試みて、腕を振り翳したのだが。


「身分良きものが憎かろう。貴殿の気持ちがよく分かろうぞ」


 突然に耳に届いた地を這うような低い声に、男は腕を下ろして焦り振り返った。

 

「嘘だろう?」


 呟きながら、手の届く先にある人影に肝を冷やす。

 しかし男が立ち上がりながら、距離を取ろうとする前に、その影は言った。


「動かなくて良い。こちらには危害を加えるつもりがない」

「……何者だ?」


 負けまいと低い声を出した男は、影の言葉に従わず立ち上がった。


 改めて見れば、目の前の人影が、何故影のままに見えるのか、男にも理解出来るようになる。

 西日を背に受けているせいだけでなく、男は全身が黒い布に覆われており、頭から被るその布から覗く顔にまで、真っ黒い仮面のようなものが重ねられていたのだ。もはや、怪しさの塊であろう。


「名乗るほどの者ではない。それより身の良き者が憎い者同士、語り合わぬか?」

「は?」

「私も過去に色々とあってな。話によっては、貴殿の恨みを晴らす手助けをしてもいい」


 普段なら先に手が出る男は、本能でこの影を避けようとしていた。

 男は一歩身を引いたが、後ろが川であることを思い出して、横に逃げようと決意する。


「待ってくれ。話をしよう。私も誰かに話を聞いて欲しかったのだ」


 影は止めようとしたが、男は駆けた。その背に地を這う低い声が追ってくる。


「恨みを晴らしたくなったなら、同じ刻、ここに来るといい。相手がいくら高貴な身の上でも手助けは可能だ。忘れるな、私はお前の助けとなる力を――」


 その声を最後に、おかしな声は聞こえなくなったが、男は駆けたまま河原を抜けて街を歩き始めた。

 何も考えずに人通りの多い通りに戻ったこともまた、育ちによって培われた能力のなせる業であるが、男はこのような結果を気に留めたことはない。


「あれはなんだったんだ?」


 呟きながら、何故かあの低い声が脳内で繰り返された。


「いくら高貴な者でもか」


 脳裏に浮かぶは、気に食わない嘘くさい笑顔。あんな奴と居て、あんな風に笑うなんて。本当にどうかしている。


 男は河原を出て街に戻ると、さっさと用事を済ませることにした。お使いを頼まれて出て来たのだ。

 戻ったら、どこで道草をしていたのだと叱られるだろう。だが、男にとっては何ら恐れることではない。

 育ちの厳しさがより無謀な男を作り上げたことを知ったとき、彼らは心から嘆くだろう。だがこれも、男にとっては知ったことではない。


 男はむしろ、今の生温い環境に居心地の悪さを覚えていた。かつての悪環境を考えれば、今の環境に感謝することが自然と捉えていた者たちは、これも残念に思っていようが、この男には分からない。


 久方ぶりに本気で駆けたことで、男の気が晴れた。


「俺は変わらねぇぞ。絶対に変わらねぇからな。いつか、腑抜けちまった奴ら全員に、俺みてぇになりたいと言わせてやる。そうだ、俺が一番のいい男になればいい。そうすりゃあ、あいつだって目が覚めるよな?」


 独り言の多い男は、先までよりもずっと晴れやかな顔で街を行く。その男の足元には、まだしばらく長い影が付き纏った。




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