24.共に前へ
「入って来ていいよ?」
一通り、見張りではなく護衛の命だが、それでも不快にさせて申し訳ないという、いつもと同じ説明を終えた磁白に私は言った。彼が受け入れることなどないと知っていても言ったのだ。これぞ気遣いというものである。
「いえ。中嗣様の許可なく上がるわけには参りませんので。私はここで。どうかお気になさらず」
写本屋の屋根に上がることは許されているのか。という疑問は浮かんだが、面倒なことにしかならないため、口を噤んだ。
「それなら、せめて窓枠に腰を掛けたら?」
「いえ、このままで構いません」
「お茶とお菓子を取ってくるから、その間だけでも座っていてよ」
「それも結構です。どうかお気遣いなく」
「私がお茶を飲みたいの。少し待っていて」
階下に降りて玉翠に事情を伝えたら、肩を竦めて「仕方のない人ですねぇ」と言っていた。玉翠まで、この珍現象に慣れているのは、どうかと思う。
普通に客として店に入って来てくれた方が話しやすいというのに、磁白はいつも仕事中だから、正式に訪問するわけには行かないと言う。それで中嗣から伝えて貰っても、やはり仕事中だからと断るのだ。その仕事を与えた中嗣が良しと言っても、何故か譲らず。
筋道の通らぬ話は流すに限ると、玉翠と頷き合った。
そんなに暇であるならば、この人に護身術習得の相手をして貰おうか?と思ったことはあったけれど。
どうせこれも中嗣の許可が必要だという返事が来ると分かっていたので、お願いしたことはない。そもそもこの人も、私を殴る素振りでさえ、見せてくれないように思う。
お茶と甘い饅頭を用意して二階に戻ったあとは、律儀に窓の外に立って待っていた磁白に、窓からそれらを手渡した。多少張り出しているとはいえ、一階の店先の屋根部分は人が立つように作られたものではなく、この狭い部分にずっと立っていられるのは凄いと思いながら、磁白をじっくりと観察する。
この男は要らぬと言うものの、目の前に物を用意すると案外とあっさりと受け取る男で、しかも中嗣に負けず劣らずの甘党だった。私は近頃、ただ甘味を取りたくて姿を見せに来るのでは?と疑うようになっている。
磁白はあっという間に饅頭をひとつ食べ終えてしまったので、もうひとつ渡してあげた。
「このような身に余るご厚誼に、心より御礼申し上げます」
「用意したのは玉翠だから。お礼なら玉翠に言っておいて」
「承知しました。されど私などをお気遣いいただき、ここまで茶と饅頭を運んでくださったことには、あなた様に御礼申し上げます」
あとで玉翠も急に現れた磁白に驚かされるのだろう。今日はどの窓だろうか。それとも裏の勝手口か。
と想像しながら、自分のために運んだ煎餅をぼりぼりと頬張った。
本当はみたらし団子が良かったのだが、しばしお預けが決まっていて、今は食べられない。
というのも、二日続けてみたらし団子だけを食べ、他に食事を取らなかったからだ。自分でもどうかと思うが、玉翠の作ったみたらし団子がとても美味しいんだもの!
さて。
緩んだ顔を引き締めて、茶を飲んでから、磁白を見やった。
この男は一体何を望んでいるのか。いつも無言で甘い菓子を食べ、茶を飲み干しては、また去っていく。
そろそろ説明をしてくれないと、見張りの仕事中におやつを望む男という武官としては大変不名誉な認識が私の中で確固たるものになるが、それで構わないのだろうか。
「ところで」
その磁白が珍しく、声を掛けてきた。
「華月様は、どうして我が名について、中嗣様にお伝えしていないのでしょうか?」
磁白は時折私の名を呼ぶようになった。それは別に構わないのだが、困ったことには、この男はどこかで予想した通り、人の話を聞かない部類の男だったのである。
武官であるし、ただの写本師である私に様を付けるのは辞めてくれと再三伝えてきたはずなのだが。
「何度も言っているけれど、あなたは官なのだから、ただの写本師に様は要らないよ。それにあなたももっと気安く話していいんだからね?」
磁白から、皆と同じにして欲しいから、敬語など不要だと言ったのだ。だから私はそのように話し方を変えたというのに。
この男はこちらの要望は聞いてくれないのである。
「中嗣様の大切な御方様ですから、華月様と呼ぶ必要があります」
「その理屈はまったく理解できないけれど……もしかして、伝えて欲しかったから私に本当の名を明かしたの?」
それならそうと早く言ってくれたら良かったのに。
「いえ。何故お伝えしていないのかと、気になっただけです」
そうだろうか。うーん。そうは見えない。
顔付きはいつもの、特徴のないぼんやりとした顔をしているけれど、その瞳には期待の熱が灯っているように感じられた。
「私からも聞いていい?」
「もちろんです。何なりと!」
やはり期待しているではないか。それなら聞いていいよね?
「どうしてあなたは中嗣に本当の名を伝えないの?」
「分かりません」
それは即答だった。これには私も考える間を忘れ、聞き返してしまう。
「分からない?どういうこと?」
「そのままの意味でございます。お伝えしようと思って口を開くのですが、いつも言葉が出て来なくなるのです。華月様は、どうして私が中嗣様に真実をお伝え出来ないと思いますか?」
「はぁ?」
つい嫌な声を出してしまった。
いや、しかしだ。何故、私に聞くの?
「それは私に聞くことではないと思うけれど。あなたがどう思っているかは、あなたにしか分からないのでは?」
「考えた結果、私には分からないという結論に至りました」
「結論を出すのが早くないかな……伝えて欲しいなら、中嗣に言っておくよ?」
「いえ、やはり自身でそうすべきだと思っております」
「そう……それなら私は何もしなくていいのね?」
「それも分かりません。頭痛ですか?急ぎ羅生殿をお呼びして参りましょう」
「これは違うから!どこも何ともないから、誰も呼ばないで!」
気が付いたら、こめかみを指でぐりぐりと回していた。
頭が痛くなりそうだったのは事実だが、羅生など呼んでしまったら、また宗葉らに迷惑を掛けてしまうので、私は大きな声で磁白の言葉を否定した。
おかげで通りのいる人たちが顔を上げて、磁白の姿を見てはぎょっとしている。この写本屋に妙な噂が付きまとうようになるのは時間の問題か。いや、もう変な噂は流れている。写本屋を装った官の密会所だとか、官が妾を囲う……私が噂を耳に入れないようにしているのは、知らない方が幸せなこともあるからだ。
「体調が悪いときは正直に仰ってください。すぐに羅生殿をお呼びします」
「うん。本当にどこもなんともないよ。それより、あなたが名を偽っている理由を聞いたらいけないんだよね?」
「いえ。そうではございませんが」
「いいよ、無理には言わないで。別に聞きたいわけではないから」
「そんな!あんまりです!」
「えぇ?聞いて欲しかったの?」
「それは私が望むことではありません」
「……」
この調子で、どこまでも考えが分からない人であれば。
会話も長く続くわけはない。
「それならもう、自分で頑張ってね、としか言えないよ?」
「つまり鍛錬が足りぬということですね」
「そんなことは一言も口にしていないかな?」
「華月様、ありがとうございました」
「はぁ?」
「私のすべきことが見えました。では、私はこれで。本日もご馳走様です!」
声を掛ける前に磁白は消えた。
そして何故か部屋の床に置いた盆の上には、磁白に渡した手拭き用の布巾や空になった湯呑みがしっかりと戻されている。
思わず深いため息が漏れた。
磁白こと、露煙との縁もまた、彼らの望んだ通りであるとしたら。
いや、きっとそうなのだ。磁白もまた、知らず導かれているのだろう。
『逃げる振りをするのはお辞めなされ』
そう言った羅賢だったけれど、今ならそれが『もう逃げられませんぞ』と脅していたのだと分かる。『お覚悟なされ』と聞いていないはずの言葉が、羅賢の懐かしい声で聞こえてきた。
羅賢から逃げ回るなんて無理だ。
それなら、逃げる考えは辞めよう。
それに置いて行かれるのは絶対に嫌だと知った。
人があれほどの短期間で変わりゆくものならば。
利雪も宗葉も、そして羅生も、どんどん変わっていって、ここに来なくなる日がそう遠くない未来にやって来る。
いずれは中嗣も――。
利雪は変わらず写本屋の客ではあり続けるだろうし、宗葉にも、羅生にも、まったく会わなくなるわけではないだろう。
それに中嗣は変わらずに、最後までここにいるのかもしれない。
それでも今の私でさえ彼らには関われないことが沢山あって、それが次第に増えていけば、どうなるか――その先は容易に見えた。
私だけ何も変わらずに、この場所に留まること。
それは知らず守られて終わることだ。
私はそれが嫌なのだ。
嫌ならば、どうすればいい?
そこから至る考えは、私にとって初めて、自分で自分の未来を描くことだった。
たとえすべてのことが、羅賢の考えの中にあるとしても。
誰かが命じた通りにしか生きられないと思い込んで育った私を変えたのは、羅賢ではなかったように思う。思い当たる人物の緩み切った顔が浮かぶと、なんだか全身がむず痒いような、複雑な気持ちになった。
もう一度空を見上げ、通りに視線を落としてから、窓を閉める。
どこにも磁白の姿はない。