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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第七章 ふれるもの
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23.揺れは伝わり共振し



 窓辺に寄って、空を見やった。風に乗った雲が青い空をゆるりと流れている。


 広くない我が家の裏庭では、洗濯したての綺麗な布が気持ちよく靡いていることだろう。

 今日と言う日を逃さまいと、今朝は玉翠と共に、掃除、洗濯にいそしんだのだ。それもこれも、誰かが朝早くに出て行ったからである。


 その誰かは、身の回りのことならば自分でするから構わなくてもいいといつも言っていた。それでも私たちが世話を焼くのは、その人があまりに出来ないからだ。


 宮中で世話をされ育った人だから、仕方のないことだろう。そのままでいいと私は思うが、彼は違った。だが本人の望んだ通りに結果が伴うとは限らない。

 私が幼い頃には、共に料理を楽しんだこともあったはずで、それなりに手順を覚えてはいるのだけれど……まぁ、向いていない。

 私が料理をすると味が無くなる現象と同じように思っていい。中嗣が作るそれは、焼き過ぎか、生焼けか、はたまた味が濃過ぎるか、薄過ぎるか、といった具合である。

 人には向き、不向きがあるのだ。


 器用な人で、記憶力もいいのに、家事をすると不思議なことが起こった。

 洗濯をすれば、力を掛け過ぎて布が伸びたり破けたり。それで優しく行えば、今度は汚れが落ちていない。 

 食器を洗えば、勢い余って皿が欠けるか、こちらもよく洗えていないかの、いずれかになる。


 そして結果に落ち込む。これこそが辟易している理由だ。

 せっかくいないのに思い出したくはないが、私を膝に置き、しばらく肩に顔を埋めては、撫でてくれと騒ぐ。それで元気になれば調子に乗って……これ以上に思い出すことは辞めておこう。



 それで私たちは家事ではなく、力仕事をお願いするようになった。役に立てることが嬉しいと言って、喜んでなんでもしてくれるのだが、残念なことには写本屋にて毎日続く家事以外の力仕事がない。

 何なら、よく持ち帰って来る書類の束を二階まで運ぶことが、最もな重労働ではないか。

 しかし中嗣という人は、役に立つことがないとまた落ち込む人でもあった。本当に面倒な性質だ。


 そこで私は武術を教えてくれるようにと頼んだ。よく寝込んでいたせいで体が鈍っていたこともあり、どうせ一人でも鍛えるつもりだったのだ。そこにきちんと武術を学び習得してきた人の教えがあれば、なんと有難いことか。

 

 ところがそう容易くことは運ばなかった。


 中嗣は真っ先に護身術として、殴られる際にこれを回避して逃げる術を教えてくれたのだけれど。

 問題は実践である。


 さぁ、殴って。と言ったら、泣いた。いや、本当には泣いていないが、泣きそうな情けない顔をして、それだけは勘弁してくれと願う。

 いやいや、頭で理解したところで、その通りに動けなければ意味がないではないか。ただでさえ、私は考える間もなく、衝撃を受け止める方向に動いてしまう癖を持っていたのだから。これを改善するためには、回避する動きを繰り返し体に覚えさせなくてはならない。


 それでもどうしても嫌だと言うから、あとは羅生にでも頼むと言ったら、もっと泣いた。いや、うん、泣いてはいないのだよ。本当には泣いていないのだけれど。心で泣いていることが見て取れた。


 羅生がするくらいなら自分がするから。そう言ったのは確かだが、その機は一向に訪れない。

 


 窓枠に肘を置き、ため息を吐いた。

 下を見れば、それなりに人は流れているが、いつもとは変わらない桜通りがそこにある。

 もう少しすれば、この桜通りを駆け抜ける異質な姿が見られるはずだ。嬉しそうに笑い、額に薄く汗を浮かべたあの人は、写本屋の店先から入って来る。



 私はもう一度息を吐いて、それから思考を止めた。

 これらの無駄な思考は、近頃頭に過るあれをまだ避けようとしている象徴だろうか。


 官が集まったあの日。私は決めたことがある。

 目覚ましく変わっていく官たちのように、私も変わっていこう。そう決めたのだ。


 ずっと引っ掛かっていたことがある。それらについて私などが考えてはならないと、思考を遮断してきたが、それは何故だったのか。

 羅賢の言うところ、『逃げる振り』というものだったのだろう。

 私は恐らく、逃げているように見せて、考えないようにしていても、結局は考え続けていたのだ。そうして、そこから見えてくるものから、目を逸らし続けていた。



 コハンナナという薬草。西国医術書の第三集。

 ちょうど良く現れた西国の商船。

 その商船に通い詰めた七位文官の覚礼、八位文官の露丁、八位武官の羅半。


 真相は知らないが、羅の家の消失と共に、羅半という人も亡くなったことになっている。羅半は羅生の従兄だった。つまりは羅賢の孫の一人であり、側妃たちとも従兄妹同士の関係にある。

 羅賢の孫である彼が、そしてこちらも羅賢の孫であった側妃たちが、ただ権威を、ただ寵愛を求めて、正妃暗殺などという手温いことを考えようか。

 それは羅生を見ていれば、分かることだった。


 文次官の座を譲り、三位に移動した覚栄。

 覚礼は、その末の弟だ。覚礼という人に関しては、妓楼屋でその姿を見たことがあるくらいでよく知らないが、遊女たちからの話を聞いて良い印象を持っていた。妓楼屋でさえ、礼儀を重んじる人で、遊女たちを酷く扱うことが決してないのだと聞く。

 そしてその兄であり、覚家の家長でもある覚栄という人こそ、伝を買い、主となってくれた人である。

 あの羅賢の手がなく、ただの小汚く教養のない子どもであった伝が、偉い文官様の家に雇われることなどまずあるはずがない。


 これに足された露丁。遊び人らしく、すぐに手を付けようとするために、一部の遊女たちからはそう好まれてはいない人だった。されども羽振りは良いとのことで、また一部の遊女たちからは人気があった。手は早いものの、乱暴な扱いはないのだと言うから、そう悪い人でもないのだろう。

 この露丁は、武次官露愁の三番目の息子である。

 その露の家の者だと、突然に伝えてきた露煙こと、磁白。

 普段は偽名を用いている意味も、私に真の名を伝えてきた意味も、未だ定かではないが、中嗣が彼を信用していることは分かった。堂々と偽名を使っている男であるのにだ。

 ということは、あの男は磁白という名で、確かな身元が存在しているということになる。もはやそれは、本名では?と思うのだが。

 露の家の者であることを隠す理由はどこにあるのか。

 そして彼は、どうして私に接触したがるのか。

 


 さらに利家と宗家について。

 長い歴史を持つ家ではあるものの、今の宮中ではさほどの力を持っておらず、目立たぬも、そこそこの地位に就き、良き働きをする者が多い、と珍しく羅賢がよく褒めていたことを覚えている。

 羅賢はさらに、面白いことを言っていた。稀に利と宗の両家にも、出世欲を持って生まれる者はいるが、何故か才に恵まれて来ないのだとか。その話を今になって聞いたならば、私はすぐにでも宗樹という人を思い浮かべたに違いない。出世したい欲を越えて、座学が嫌いである彼は、とても苦労していよう。

 しかも宗樹は、家でもそう強い立場にはないそうなのだ。権力を欲する彼としては、その微妙な生まれにも不満を持っていたのではないか。これは後から宗葉に聞いた話から、察したものである。利雪も宗葉もどうやら本家筋ではなく、家長の座を継ぐ予定はないと言っていた。

 では何故そんな二人を、それも宗樹を選ばずに、中嗣に近付けたか。

 羅賢が中嗣への親しみだけで、そうしたとはとても思えない。

 


 そうして利雪、宗葉が本当に中嗣の直属の部下となってから、突然に現れた邑家の兄妹。

 邑天と邑仙は、武大臣邑昌の子どもたちで、姉はあの正妃だ。知らずコハンナナを飲まされ、昏睡状態にまで陥っていた不憫な女性を、姉としている。



 一連のすべてが、羅賢らの思惑通りに運んでいるのではないか。

 近頃は、そのように思えてならない。いや、ずっと思っていたことだ。それを私は、受け止められるようになっている。

 思い出せば泣いてしまってどうしようもなかったあの頃ならば、出来なかったことだ。



 羅賢はあの日、何をしたのか?


 

 ただ死ぬ人ではない。病気を理由にすべてを諦め、身内を犠牲にするような愚かな考えを持つわけがない。それに羅賢なら、身内があぁなる前に矯正していた。


 彼は間違いなく、何かしたのだ。

 この件についてはあまり話せていないのだが、中嗣も私と同じようなことを信じて疑っていない様子だ。


 何か意味があって、羅の家はあの夜に燃えたのだ。



 息を吐いて、窓を閉めようと思ったとき。

 目のまえに黒い服を着た男が立っていた。一瞬、ここが二階であることを忘れたが、すぐに冷静さは戻り、私は声を掛ける。


「また見張りをしていたの?」


 すでにこの男に対しても礼儀を忘れた私が問えば、男は不快さを示すどころか、深々と頭を下げて、不快にさせて悪いとむしろ詫びるのであった。


「謝らなくていいから。落ち着いて。顔を上げて」


 通りから目立って仕方がないから、本当に辞めて欲しい。




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