22.知らず導かれ羽ばたいていく
宗葉はうーんと唸りながら、腕を組んだ。
上司の前で取る姿勢ではなかったが、宗葉はそれどころではない。
中嗣の話はなんとなく理解出来ても、それを容易く実行できるかと言えばそうではなかったからだ。そう容易く出来ることならば、これまでも宗葉はそうしていただろう。
ここで安易に理解を示し、賢い上司や幼馴染と同等のものを求められては困るのだ。
それに宗葉が手にする書類の多くは、宮中内部に関わるものであった。これはどう判断すべきか。宗葉は今、それについて指摘すると、かえって分からぬ仕事を回されるようになって、自分が追い詰められるのではないかと勘付き、口を閉ざしている。
しかし中嗣は、意外にも宗葉がこのような拙い考えに至ることを予測していた。
それならもっと褒めて喜ばせてやれば良いものを、そこには気が回らない残念な男である。
「そこで君に頼みたい仕事があってね」
中嗣の提案に対し、宗葉は途端に目を泳がせるのだった。分かりやすい男だ。
ここで中嗣は上司らしく、宗葉に対し厳しい態度を示すのかと思いきや……
中嗣の視線は、迷いなく膝の上の娘へと向かっていった。
後ろからのぞき込むような形で、華月の耳元で囁いたのだ。
「華月。心苦しいことなのだがね。あれを見せてやろうと思うのだよ」
華月は近過ぎた声に戸惑い耳を押さえながら、振り返って言った。
「うん、どうぞ?」
中嗣が残念そうに眉を下げた心情を、華月は何も理解していない。
「本当は見せたくもないのだが、こればかりは、ここで新たに書いて貰うわけにもいかないだろう?」
「うん、だから、どうぞ?見せてあげて?」
華月の声に棘が含まれてきたというのに。
「やはり見せたくはないな。私が改めてまとめるか?」
こんなことだから、この男にはいつまでたっても上司たる威厳が見えない。
「んもう!無駄な手間を増やしてどうするのよ。いいから、早く見せてあげて!」
怒鳴られて渋々といった体で中嗣は文机の脇に置いてあった一冊の書を利雪に渡した。
本当は宗葉に渡したかったのだが、横から奪い取るようにして利雪の手が伸びてきたために、そうしたのである。
何故先まで声も届いていない様子だったのに、ここでは素早く反応出来るのか。それは利雪以外の誰もが同じく疑問に思ったことだった。
「書類の一覧ですか。これは素晴らしく美しくまとまっておりますね。それにやはり、美しい字であって、とても読みやすい」
「君ではなく、宗葉に見せたいのだが?」
「宗葉も見えますでしょう?ねぇ?」
「お、おぅ。横からもよく見えているぞ」
有無を言わさぬ圧を感じ取った宗葉は、大袈裟に頷いた。
華月と中嗣が同時に長く息を吐いていたことには、羅生も一人笑ってしまう。
「宗葉、これからは君がこれを作ってみないか?」
「私がこれをですか?」
「あぁ。君はまずどんな書類があって、それらが何を目的としているか、これを把握すべきだと思うのだよ」
「こちらを真似て書類を管理せよというならば、出来そうですが。目的のまとめですか?それを私一人で?」
「別に真似ることはないから、自分のために良きように作ってごらん」
「自分のためですか……はい……」
宗葉が一切納得している顔を見せなかったことは、中嗣の膝の上にあった娘を喜ばせた。宗葉ってあんなに面白い人だったのね、とあとで中嗣に伝えたくらいである。
◇◇◇
この日を境に、紅玉御殿の文次官の部屋の様子は変容していった。
いつも高く積み上げられていた書類の塔が、明らかに日増しにその量を減らしていったのである。
それは文次官の部下たちが、上司に受け渡すべき書類を見極める目を育てたからに違いなく、おかげで紅玉御殿の他の部屋にて今までよりも多くの書類を抱え、阿鼻叫喚となった文官たちの姿が散見されるようになっていくのだが。
それは中嗣が文次官らしい立場を確立しつつあることも意味していた。
誰かに任せていては仕事にならないと、これまでは何もかも一人で抱え、一人で行おうとしていた中嗣が、ようやく人を使い、人を動かして、宮中を掌握する術を手にしようと、変わり始めていたのである。
それもこれも、部下を得たこと、そして頼りにしていた老賢人を失ったことに端を発していよう。
その変化のはじまりに、一介の街の写本師、それもただの街娘であって、元を辿れば子売り小屋育ちという庶民からも『下賤』と罵られるような娘が介入していることを、宮中の誰が信じようか。
こうして華月は、すっかり若い官たちと共に、宮中の変容に取り込まれていく。
若者たちは誰もが知らぬ間に、老人らの望む通りに導かれているのだった。