20.切ることの出来ない鎖に縛れるということ
『いい気になるなよ』
兄宗樹が忌々しそうに言った声は、宗葉には昨日のことのように思い出せた。ある日家に戻り、予期せず鉢合わせとなったときに、伝えられた言葉だ。
『中嗣など、家という後ろ盾もなく、周りからは良きように使われて、いずれは捨てられる身。そのような男について、お前もどうなるか分かったものではないのだぞ。家を知らぬあの男なら、お前に責を押し付けるようなこともあるかもしれぬ。いや、そのために何の取柄もない使えぬお前などを重用したとしか考えられぬな。お前も身の程を忘れぬことだ』
吐き捨てるように言った宗樹は、不敵な笑みを浮かべて最後にこう言った。
『俺に……いや、この家に迷惑を掛けることだけは考えるな。俺たちは必ず、お前一人よりも家の存続を選ぶだろう。ことが起こった後に縋ったところで、家からの助けはなきものと思え』
宗葉がこのとき、特に反論もせず、神妙に頷いておくに留めたのは、兄の質をよく知っていたからに違いない。
躾けだ、教育だと称して、兄から散々痛めつけられてきた過去がある宗葉にとって、兄への反論は怪我を増やすことだけを意味していた。
されどもこのときの宗葉が咄嗟に反論する言葉を口にしなかったのは、兄の考えに納得していた、ということもある。
宗葉は中嗣不在の紅玉御殿のあの部屋で、沢山の訪問客の応対をしているうちに、嫌と言うほど宮中の内情を知らされていた。
中嗣には敵が多い。
中嗣が敵視しているのではなく、知らぬところで勝手に妬まれ、恨まれて、中嗣を早く失脚させたいと願う官が数多いるのだ。
意外にも上位の者からはさして恨みごとを感じず、下位で燻る官からも感じられず、どちらかと言えば中途半端な位にある由緒正しき家の官ほど、中嗣を疎ましく思っていることを、宗葉は知っていた。
彼らが恐ろしいことには、今や直属の部下となった宗葉を前にして、中嗣を悪く思う態度を隠さないことである。それも彼らはあえてそうしているのだから。宗葉を味方に引き込んで、中嗣を内側から引きずり下ろしたいのだろう。
宗葉は兄も彼らと同じであることに気付いていた。嫌な言葉を掛けられたあのとき、宗葉が少しでも中嗣の悪口を言っていたら、兄は喜んで話を聞いてくれたのではないか。
されどもその考えは、宗葉を下に見ていることの表れであって、宗葉もいい気分はしない。
彼らこそ、中嗣を良きように使い捨て、同じく宗葉のことも使い捨てようと考えているはずだ。
宗葉は意外と、人を見る目には長けていた。女性たちの機微には疎いところは残念であるも、同性を見る目、それも悪意ある者の本質に気付く目がある。中嗣の部下となってから、急速にこの能力を磨いていることは、本人も気付いていないところだ。
こうして宗葉は眉を顰めたのだが、それは最早宗樹の言葉を思い出したせいではなかった。ところが中嗣はこれを宗樹のせいであると受け取って、見当違いな分析を始める。
部下のいつも以上に幼い顔を見て、兄を思い出せば、自ずと弟らしさが現れるものかという考えに至ったのだ。兄弟を知らぬ中嗣らしいところであるも、中嗣はこれ以上宗樹のことを思い出していても良きことにはならないと判断し、話を戻すことに決めたのだった。
「宗葉。君は字を追うことが嫌いか?」
宗葉は、中嗣の言葉を受けてすぐに現実に引き戻されるも、即答は出来なかった。
いたずらを咎められた子どものように目を泳がせているその様には、中嗣もついつい優しく微笑んでしまうのである。
「嫌いなことは、嫌いだと言っていいのだよ。人の好みに、良し悪しの判断はないからね」
宗葉は覚悟を決めたように、中嗣に向かい頷くと、はっきりとよく通る声で話した。
「では、正直に申します。情けなきことですが、書も書類も目を通すことが大の苦手です」
分かっていたとばかりに中嗣は頷き、その膝の上では華月が次の煎餅を食べるかどうかに迷っていた。
知らぬ男である宗樹の話が終わったところで、華月は官たちの会話から興味を失ったのだろう。
「それでよく文官になろうと思ったな」
羅生が揶揄すれば、宗葉は堂々と背筋を伸ばして答えるのである。もはや開き直りと言っていい。
「仕方ないだろう。兄と同じ官にはなりたくなかったのだ」
「医官ではならなかったのか?俺が特殊なだけで、通常は文官様ほどの書類仕事はないぞ」
「俺に医官は無理だ。血など見たくないし、見ては倒れる」
「ほぅ。意外と甘ったれたことを言う。それならば、神官が良かったのではないか?」
「そちらも無理だ。聖典は読む前に開くだけで頭が痛くなってくる。あれは書類よりも具合が悪く、俺にとっては呪いの書だな」
「呪いの書とは。くくっ。面白いが、間違っても宮中では口にするなよ」
「言うか。俺とて時と場は弁え……申し訳ありません。弁えておりませんでした」
目の前に上司がいたことをすっかり忘れて、本音を零していた宗葉であったが。
ところがその上司は華月の口元にせっせと煎餅を運び、耳元で甘い言葉を囁いてはなんとか食べさせようとしているではないか。
上司に謝ったことを早速後悔する宗葉であった。
「別に構わないよ。君はもしや兄のことを」
「嫌いですね。はい」
今度の宗葉の返答は潔かった。
バリバリとまた小気味よい音が聞こえてきたが、宗葉はもう気にしないことにする。