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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第七章 ふれるもの
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19.弟であるということは



「兄が申し訳ありません!」


 突然頭を下げた宗葉を前に、中嗣もぎょっとして、これを制した。

 娘を膝に抱いて喜ぶ男に向かい、真剣に頭を下げて詫びる男という絵は、なかなか……とにやつきながら観察していたのは羅生である。


「どうしたのだ?何を謝ることがある?」

「間違いなく、兄はご迷惑をお掛けしたでしょう。初めに謝るべきことでしたが、気遣いが足りず、斯様に遅くなりまして大変申し訳ありません。兄の非礼、この通りお詫びいたします」


 振り返り顔色を窺う華月に、中嗣はにこりと微笑み、その頭を撫でてから言った。


「頭を上げなさい、宗葉。君が気にするようなことは何も起きていないからね。そしてたとえ宗樹との間に何かがあったとしても、兄のことで君が私に謝罪をすべき謂れはない。二度と同じことで謝らないように」


 宗葉は体を起こすと、心底安堵した顔で、肩を落としながら息を吐く。


 宗樹という男を思い出した中嗣の目に、宗葉と重なるものはなかった。

 兄弟というわりには顔立ちもそう似ておらず、唯一共通している点と言えば、その恵まれた体格だろう。それでも宗樹の方が武官らしく、遠目からも良く鍛えていることが分かる体付きをしているので、宗葉と似ているというほどでもない。


 実は華月も同じことを考えていた。脳裏に浮かんだ宗樹という大きな体をした男は、宗葉とさほど似ていないように感じる。

 先に利雪には宗樹について知らないと言ったが、華月は完全に知らないわけではなかった。

 だがよく知らない相手であることは事実で、それは宗樹の好む妓楼屋が、逢天楼ではなかったからだ。それでも華月は花街を歩く宗樹を何度も見掛けたことがあって、遊女たちからも彼の話を聞いていた。

 宗家のこの兄弟に共通点があるとすれば、それはいずれも、花街を好みながら、遊女たちからの覚えが悪いという点だろうか。際立って悪く言われているわけでもないが、では好まれているかと言えばそうではないところが、兄弟の似たところであると華月は捉えてしまう。


 言っておくが、華月が一方的に宗樹の存在に気付いているだけで、二人は知った仲ではない。

 噂を見聞きしている華月は、あえて自分から宗樹に近付くことはなかったし、宗樹の方でも、逢天楼での華月の噂を耳にしている可能性はあるが、男か女か分からぬような容姿をした小娘には興味もないのだろう。

 花街に通う男の強い興味の対象は、いつも別にあるものだ。


 そんな華月も宗葉を知るうちに、宗樹という人も意外と話に聞くよりはいい人なのではないか、と想像していたのだが。目前で繰り広げられる官たちの会話から、それが間違っていたことを知ることになった。



 人を見る目はまだ足りぬと反省する華月は、同時に胡蝶や美鈴にはこのことを言わないでおこうと決意を固める。

 これまで類似の件で叱られた経験は数えきれず。逢天楼の遊女たちには、余計なことを伝えないに限るのだ。


 元々宗葉のこととて、話が出たときには、胡蝶がその付き合いに難色を示していた。華月に対しては、彼らと付き合うべきではないとはっきりと伝えていたくらいである。

 それからも、胡蝶はあの老人とは長く、何やら遠回しの言葉を用いての応酬を続けていたものだが。残念なことには、華月がその場にいながら、二人は仲が良く、特殊な会話を楽しんでいるのだと心から信じて疑わなかったことにある。

 胡蝶からすれば、華月は周りが言うような賢い娘ではない。



 とにかく自ら宗樹に近付くような真似をしなくてよかった。

 ほっとしながら、華月は皿に並んだ煎餅に手を伸ばした。


 一口齧って、すぐに慌てた顔で口元を押えたのは、口を閉じても誤魔化せぬバリバリという小気味よい咀嚼音が部屋に轟いてしまったからである。

 中嗣にとってはどんな失態も愛おしく感じるようで、嬉しそうに目尻を下げ、両の口角を上げて華月の頭を撫でると、中嗣はまた宗葉に向けて言った。


「宗樹のことを言っておこうか。私とは、かつて武官をしていた頃に少し話す機会があったくらいで、さほど知らない仲なのだよ。彼の性格からすれば、今の私にわざわざ絡んで来るような男でもないし、君が憂えるようなことは今度も起きないだろうから安心したまえ」


 宗葉の兄である宗樹は、権力、家柄、そういった表面的なものに弱い男だった。善悪の是非を問わねば、宮中でも官らしい男であると言えようし、特別その性質が際立っているわけではない。


 同位の武官であるうちは、家柄を振り翳して、中嗣よりも偉そうに立ち回っていたが、あっという間に官位を追い抜かれてからは、宗樹から中嗣に絡んでくることはなかった。

 磁白のように、すぐに官位を抜かれるという点にまで頭が回らないあたり、決して賢い男とは言えないだろう。中嗣からすれば、彼には脅威を感じたこともなく、宗葉と付き合うまでは存在を忘れていたくらいだ。


 それに中嗣は、もっと面倒な兄妹をよく知っていたわけで、宗樹のように一線を越えることなく少々の嫌味を伝えて来るような官に、心を乱されるような弱さもない。


 その宗樹が、文官となって、いよいよ次官にまで上り詰めた男に、望んで顔を合わせようとするだろうか。否、そのようなことが出来る懐の広い男ではないのである。


「くくっ。あ奴のことだ。今となっては、弟のお前にも関わろうとしないのではないか?」


 羅生もまた、宗樹という男の人となりを知っているようだ。揶揄するように伝えた羅生だが、一方の宗葉はこれに難しい顔で頷いた。


「確かに俺が官位を抜いてしまってからは、かつてのように急に呼び出されることもなくなったな。たまに家に帰ったときに鉢合わせしまうことはあるが、向こうも会いたくなかったような態度を示す」


 予想通りというように羅生は頷き、華月は羅生の顔の広さに驚いていた。




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