17.己を大きく取り繕うよりはいいですが
「中嗣様、残念ながらこやつらにはまだ物事の本質を見極める目というものが育っていないようですぞ」
「君がそれを言うのか?」
「おや?私が如何なる時に、本質を見極められなかったと仰る気で?本質どころか、場の空気さえ豊かに読める賢い男ですぞ?」
「君が場の空気を読むと?先までの態度といい、君のどこが……まぁ、いいだろう。君への説教はあとだ。まずは利雪に、宗葉。その紙を見たならば、真っ先に目を向けるべき問題があるのではないか?」
利雪と宗葉が示し合わせたように顔を見合った。
「もしや。華月を女官に推薦せよと?」
「はぁ?」
華月からいつもと違う素っ頓狂な声が出た。
されど利雪の言葉を受けては、華月が荒ぶるのも無理はないだろう。
これを鎮めようと、中嗣が「すまない」と謝って頭まで撫でているが、華月は先まで利雪の成長を喜んでいた自分を恥じていた。
そう容易く人は変わらないのである。
「あなたが望まぬことはしませんが。華月と共に仕事が出来たら、どれだけ素晴らしいことになるのでしょうか。ひとたび想像してしまえば、私はもう推薦せずには……華月、あなたを説得してもよろしいですか?」
「想像しなくていいし、いくら説得されても、私は女官になんかならないよ!」
「そうだとも。君たちは、まずそれが己の仕事だと気付くところから始めなさい。何故華月に仕事を押し付けようとしているのだ。彼女から写本師の職を奪う気か?」
「それはいけません!今の発言はなかったことに!」
利雪が強く言う間に、宗葉は疑問を持った。
その写本師の娘に、どうして仕事を手伝わせているのか。
その疑問を口には出さず、宗葉は中嗣の言葉を真摯に受け止めていると、態度で示すことにする。
「私たちの仕事であるということは、この紙を作るようにとのご指示ですか?」
「君たちに同じ紙を用意しろと言いたいのではなくてね。もちろん、出来るならばそうして欲しいところだが。そうではなく……」
どこからどこまで指導せねばならないのか。中嗣は悩み、言葉を止めた。
本当は自ら気付いて、成長して欲しいのだ。ただ言われた通りに物事を進める部下を、中嗣は望んでいない。それならば、見習い文官でも揃えて側に置いておく方が楽である。
これを助けるように、会話を受け継いだのは羅生だった。
「お前たちは、官でもなんでもない華月が、先ぞやの短い間にこの一枚を作り上げたことに関して、何の疑問も持たぬのか?」
利雪と宗葉がまたしても顔を見合わせて、お互いに驚きを示し合う。
「まさか。初見でこの紙を?」
「まさか。そんなことがあるはずはあるまい。華月はほんの僅かな間しか、書類を見ていなかったではないか。それも流すように頁を繰っていただけなのだぞ?以前に読んだことがあったに違いない。そうだよな、華月?」
「いや、初見だけど?」
華月の返答に、利雪と宗葉はもう何度目か、顔を見合わせ驚き示す。
羅生のくつくつという笑い声が、嫌味たらしく部屋によく響いた。
「あの分厚い書類をどうやってこの短い間に読み終えたのだ?なんだ?どうなっている?お前は天才か!天才ではなかったら、何だと言うのだ?」
宗葉の声は大きく、一階の店先まで届いたくらいだ。店の番台の前で製本作業をしていた玉翠が一人笑っていても、二階の者たちは誰も知らない。
ここで「君は誰のことをお前などと呼び――」と宗葉に説教を始めようとした中嗣を遮るようにして、華月も宗葉に負けない大きな声を発した。
途端、一階の玉翠の笑みには、愛情が滲む。
「逆に私が聞きたいところだよ!宗葉はいつもあんなに無駄な書類を最初から最後まで全部読み込んでいたとでも言う気なの?」
「それは当然。理解出来る限りは。分かる範囲となろうも。それはな。書いてあるからには俺も読むぞ」
言葉を足すごとに声が小さくなっていく宗葉に、羅生は大きく笑い出した。
「すべて読んだと宣言出来ぬところがお前らしいな。嘘でもそうだと言ってしまえばいいものを。どうせ言うほどに読み込んでもいないのだろう?」
「うるさいぞ。して、華月。どういうことなのだ?何か特別な技でも使っているのか?」
「技なんて使っていないよ。要点を拾い上げただけだもの。そんなに時間が掛かるわけはないでしょう?」
「要点を拾い上げる……とは何だ?」
さっぱりわからず首を捻った宗葉とは対照的に、利雪は訳知り顔で頷きながら「つまり大事なところだけを、あなたはこの文字の山から即座に拾い上げることが出来るということですね」と呟く。それからも何やらぶつぶつと言っては、美しく首を傾げていた。
「書を読むときと同じことだよ。必要な情報を求めて書を開いたときに、わざわざ最初から最後まで読まないことと同じ!」
「書と同じ……いや、俺は必要な情報を求めて書など開かんぞ」
「それなら、いつもどうやって調べものをしているの?」
「まずは人に聞くだろう」
「……そういう人もいるかもね。だけど聞いても分からないときには?」
「人に聞いて分からぬ話が俺に分かるはずもなかろう。して、その必要な部分をどうやって即座に判断出来るのだ?」
恥を忘れて真剣な顔で小娘に問う宗葉が、先まで上司に対し恥を知らぬのだなどと考えていたのだから。
これだから宗葉は羅生から馬鹿にされるのである。
「それはむしろ、宗葉の方が詳しいものではなくて?官でもない私からこの場で言えることなんて……」
「そう言わず。頼むから、教えてくれ」
土下座でも始めそうな勢いで、宗葉は熱く懇願した。
華月はすぐに大きな男が座る方向から体を引いたのだが、抱えられているのでただ中嗣の胸に背を預ける形となって後ろの男を喜ばせるだけとなる。
されども今は嫌な顔をしている場合ではなく、この男はお手上げだと伝えるために後ろの中嗣を見上げてみれば、中嗣は柔らかく微笑んで静かに頷くのであった。
これは伝わっているのか、否か。
「仕方がない。私から説明しよう」
中嗣がそう言ったからには、華月の想いは汲み取られていたということか。