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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第一章 おくりもの
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16.老賢人のはかりごと


 この日、利雪と宗葉は、二十年の人生では経験のない激動の一日を過ごした。


 利雪らは写本屋から宮中に戻ると、すぐには紅玉御殿に戻らず、武官の集う青玉御殿に足を向けた。

 ところが羅半には会えなかったのだ。外泊を申請しているから、今夜は戻らないと言う。


 名のある家の若い者たちは外泊を好んだ。宮中で与えられる部屋より、家の屋敷の方が立派だからだ。特に羅の屋敷は通りを挟んで目と鼻の先にあるから、まだ八位の羅半がそうするのも無理はない。


 利雪は隣り合う二つの部屋与えられていた。四位に上がったときからだ。それで仕事と生活空間をなんとなく分けている。

 五位の宗葉はまだ一部屋だから、いつも届く書類に囲まれて寝ていたが、寝られたら構わない宗葉はそれを気にしてはいなかった。


 青玉御殿の奥にまでは入ったことのない利雪らにとって、八位の武官の生活は想像でしかないが、羅半はおそらく個室を与えられていないだろう。羅の家の後ろ盾がどう影響しているかは分からず明確には言えないが、武官は書類仕事が少ないのもあって、個人の部屋を与えられるのが文官たちよりも遅いのだと聞いていた。順当であれば、八位の武官である羅半は、同位の武官数名と同じ部屋で寝食を共にしているはずだ。

 このことを宗葉は嫌というほどに聞かされていた。宗葉が個室を与えられたときの武官である兄の宗樹の荒れようと言ったら……

 だから宗葉は日頃からなるべく青玉御殿には近付かないようにしているが、今日という日は逃げたくなかった。それでも取次の官と会うだけで済んで青玉御殿を離れたときには、ほっとしたものだ。


 さて、今は羅半だ。

 羅の屋敷は近いから、行って呼び出すことも出来なくはないが、彼が羅の屋敷に戻っているかまでは定かなことではなかった。

 官の中には、夜通し遊ぶものや、女の家に通う者もあり、それらを家に伝えているとは限らない。もしも個人的な理由で宮中を空けているなら、勝手に訪問しては家の者に知られたと激怒されることもある。

 だから利雪らはそれ以上羅半を探さず、明朝再び青玉御殿を訪ねることにした。

 取次役に言伝を頼まなかったのも、それで何かを察して逃げられる、あるいは妙な動きをされると困るからである。

 利雪らが青玉御殿に顔を出した時点で怪しまれる可能性もあったが、仕事で武官に問い合わせを行うことは通常もあり、不自然ではないと思いたい。中嗣がそうしろと言ったこともあるが、羅半を引っ張り出すための他のいい言葉を利雪らも思い付きはしなかった。



 しかしそれも、杞憂に終わる。


 火災を知らせる半鐘が鳴り響いたとき、利雪も宗葉も自室にてすでに寛いでいた。日が変わる半刻前のことである。


「火災です!羅の家が燃えています!」


 見習い文官の漢赤が廊下を駆けながら言ったのを聞いたとき、利雪の体は震えていた。

 考えるまでもなく、一連の出来事の末に何かが起きたと知ったからだ。


 一方宗葉も同じ頃、廊下に出てきた隣室の炉湖と様子を見に出るかと相談していたところで、そこへ見習いの緋夕が駆けて来て、事情を知った。緋夕は宗葉の大きな体をどうにか避けて、廊下の先へと駆けていく。


「まさか……いや、まさかな」


 宗葉は見たくないものに蓋をして、ただの偶然で済ませようとした。


「見に行くか?」

「あぁ。手伝えることがあるかもしれん」


 すでに紅玉御殿内部にも焦げた嫌な臭いが漂っている。

 本当に羅の屋敷だけなのかという不安は文官たちにも広がっていた。

 宮中をぐるりと囲む高い塀を超えて、こちらに飛び火することはまずないだろうが、街一体が焼かれたらそれも分からない。


 急ぎ着替えて外に飛び出すと、人、人、人で、どうにもならなかった。黒煙は風に乗って視界を奪い、そのたびに立ち往生する者たちで行く手を塞がれ、人とぶつかり合いながら進むことになる。

 恐ろしいことには、一部の空が真っ赤で、真夜中であるというのに明るいことだ。提灯も持たず、人の顔が容易に確認出来る夜など、そうあるものではない。


 青玉御殿からは武官らが列をなして水を運んでいることが分かった。

 武官らが鍛えた体を活かして、火消しに回っているのだ。

 宗葉も手伝おうかと考えたが、武官らの連携はさすが見事で、手を出す隙がないし、声もかからない。それどころか、「武官以外は邪魔だ、除け!」「文官は役に立たん。用もなく出歩くな!」という声まで聞こえてくる。


 見れば医官も「怪我人はいないか!」「怪我人がいたら、こちらに回せ!」と声を張り上げ、聞きまわっていた。


 こうなると、宗葉と炉湖は、ただの野次馬だ。

 遠巻きに様子を見ようと、とにかく北門に向かうことにした。宮中の北側には各家の屋敷が多く存在しているが、羅の家は目と鼻の先。さすがに見れば、一目瞭然でどの家が燃えているか分かった。


「本当に羅の屋敷ではないか」


 呟く宗葉の思いなど、炉湖が知るはずもなく。


「ここは危ない。戻ろうぞ」


 火の勢いは凄まじく、熱風は容赦なく二人の体に向かい、長くこの場にいることは出来そうもなかった。

 武官らが前線にいる者を次々と交代させている理由も悟る。


 官の家ということで、民が何かをしている様子はない。この一帯が官の屋敷ばかりというのもあるだろう。

 遠くから野次馬をしている民たちはいたが、それも東西の大通りを挟んだ向こうから眺めているだけだ。

 これが民間の家ならば、命に代えても火を消すために民たちは協力して動いている。たとえ炎から身を守れても、それで終わらないからだ。最初に火を上げた家の主はどのみち斬首刑となるし、火災の規模によってはそれだけでは済まず、防火当番の者や飛び火した家の主まで処罰の対象になるのだから、それは必至になるだろう。

 宮中へと戻る寸前に、遠くに並ぶ民たちを見て、華月の言った命の重さの違いを宗葉が思い出していたかは分からない。



 このとき、宮中では動きのない屋敷があった。

 半鐘の音も外での大声も届いているし、煙たさも感じているのに、彼らは動かなかったのだ。


 神官のいる白玉御殿。

 宮中の中心となり、昼間は皇帝もいる本殿。

 後宮手前の女官たちがいる月桂宮。

 そしてこの時間は皇帝もいるはずの後宮。


 それぞれの屋敷の状況を考えれば問題はなくも、その静けさに違和を覚える者はあったのではないか。この状況では何も出来ない文官でさえ、複数屋敷から飛び出してきていたのだから。

 しかし騒ぎの中で指摘するものはなく。



 紅玉御殿に戻った宗葉の足は、利雪や中嗣の元へは向かわなかった。

 宗葉の頭が、考えることを拒絶している。これほどの大事になる問題に自分も関わっていたという点が受け入れられない。

 利雪のところに行けば、それが疑惑に変わる気がした。

 中嗣などはさらに酷く、憶測では終わらない真実を示されるのではないか。


 分からない方が楽ではないか。何も知らず、今まで通りで良かったのではないか。

 宗葉の思いは知らず、羅の屋敷は轟轟と燃え続ける。やがて崩れ落ちるそのときまで。




◇◇◇



 それから数日、官たちはこれまでになく忙しい日々を過ごした。


 消火活動もむなしく、火の勢いは屋敷が全焼するまで続き、やがて燃えるものがなくなると、ようやく煙を吐き出して終わりを迎えた。焦げ臭さはいつまでも残り、どの官もしばらくは鼻がおかしくなって食事に困ったくらいだ。


 屋敷が大通りに面していたこと、広い庭と高い石塀に囲まれていたことで飛び火しないで済んだことは、幸いと言えよう。被害が羅の家だけならば、責任も羅の家で取ればいい。下男の首か、屋敷を管理していた侍従の首で済むだろうと考えられていた。


 しかし今やこのようなことを口に出来ない状況にある。

 羅の家の者がこぞって、あの火災の日から姿を消してしまったからだ。


 あの日、宮中にいなかったのは、羅半だけではない。

 文大臣の羅賢を筆頭に、羅の家の者たちのほとんどは、あの屋敷に戻っていたのだ。

 誰かが聞いた話によると、羅の家の者たちはその日宴会を開いていたという。

 

 そのせいで宮中は混乱を極めた。

 一度に多くの官が消えたことで、宮中の仕事が停滞したからだ。

 おかげで利雪も宗葉も、華月の問題どころではない。

 医官らもそれについて言ってくる者がいなくなった。

 宮中における最重要事項が、羅の家の後処理に変わったからだ。

 正妃暗殺問題など、他にないほどの重要事項であると思うが、なぜか皇帝も利雪らを呼び出さなくなった。中嗣も声を掛けて来ないので、利雪らは目の前の仕事に追われるばかりだ。



 羅の一族のほとんどが消えるなんて。さすがにこれは何かあるのではないか。

 そのような意見も多く、今回の火災に対する官らによる検分は、数日掛けて徹底的に行われることとなった。


 火災当日、前線で火消しを行っていたある武官は、気になっていることがある。

 火消しの間に、屋敷の関係者に出会わなかったのだ。

 近隣の屋敷からは人が出て来ているというのに、火災に気付いて着の身着のままで羅の屋敷から通りへと逃げ出してきた者はおらず。まだ中に人がいるかどうかを説明出来る者がないか探したが、火が消えて遺体を見つけるその時まで、ついぞ誰一人名乗り出ては来なかったのだ。


 屋敷の残骸を調べていた文官は、奇妙なことに気付く。

 燃えた痕跡がもっとも激しい場所を見つけたのだが、屋敷図と照らし合わせるとそこは囲炉裏も竈もないただの部屋だったのだ。そして遺体はすべてその周辺で見つかった。

 あれだけの規模のお屋敷で、なぜ人が一か所に集まっていたのか。

 その誰もが火の不始末に気付かず、逃げることも叶わずに、亡くなっているのはなぜだ。

 共に燃えた厩舎から馬の骨も見つからないのはどうしてなのか。

 文官は次々に生じる疑問を心に留め、火災原因の推測だけを報告する。火鉢や煙草の不始末が原因だろう、と。


 遺体の検分をしていた医官もまた、不思議なことに気付く。

 遺体は人を判別出来るような状況にはなかったが、その形状を見る限り、全員が眠っている間に火に炙られたのではないかということだった。遺体の形状からは、逃げようとした動きが一切見られなかったからである。

 すべての遺体が寄り添うようにして見つかったと聞いたが、火元はまさか……という恐ろしい考えを飲み込んで、医官は遺体の身体的な特徴、と言っても、大きさで判別するしかないが、それと消えた羅の者とを照合し、報告書を作成した。

 回された報告書が医大臣の手から離れたとき、文大臣の羅賢をはじめ、羅の家の者たちが、この世から亡くなった。



 同時に正妃暗殺未遂事件も終わりを告げる。

 羅の家は正規暗殺未遂事件の責任を取った。利雪らが聞いたとき、それは宮中における決定事項だった。




◇◇◇



 ようやく羅の家がない状態を常として、宮中の仕事が回り始めるようになった頃には、ひと月が過ぎていた。


「あの方は、また何をしてくれたのか」


 屋敷があったはずのその場所の前に立ち、中嗣は昇る朝陽を眺めていた。

 屋敷の庭の桜は燃えず、熱にも耐え、今年も無事に花を付けている。満開まであと数日というその桜の樹は、喜んで今日の陽を迎えているが、それを喜ぶ住人はもういない。


 陽が昇り切ったあと、中嗣は献花台の前に移動した。

 献花台には、今も多くの花が手向けられている。

 

 中嗣は何を思ったのか。献花台に向かい、しばらくの間、腰を折って頭を下げ続けた。

 やがて顔を上げ、今度は空を見上げる。

 真上に広がる澄み切った青空に、凛とした冷たい空気は憎らしいほどに清々しく、中嗣は忌々しさを籠めた目でこれを睨んだ。


「どうして巻き込んだのです?あなたなら、もっと上手く立ち回れたはずでしょう。それをどうして……」


 詰問するその声を聞いたものはいない。

 焦げた匂いはなお残っているが、目の前には爽やかな朝があるだけだ。


 歪めた顔を引き戻し、朝陽のよく似合ういつもの端正な顔を作って、中嗣は宮中に戻っていく。

 これで終わりではないのだ。


 中嗣の孤独な戦いは続く。

 孤独ではなくなったことを、まだ知らずに――


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