16.まだ足りない者たちは上司が恨めしい
「書類の要約?いつものあれのこと?」
華月が振り返るようにして見上げてやれば、中嗣はそれは幸せそうに微笑むのだった。
華月がどれだけうんざりとした表情を浮かべていても、である。
「あぁ。彼らに見せるために、ここで書いて貰いたい」
「今までに書いたものが沢山あるでしょう?それでは駄目なの?」
「駄目に決まっているではないか」
「はぁ?」
華月の声がまた荒れ始める。本当にいい加減にしてくれと、羅生でも笑顔を消して想っていたくらいだ。部下たちは、二人がすぐに始める長いやり取りに飽き飽きとしていた。
「君が私のためにまとめてくれた情報を、何故他人に見せねばならない?」
「別に中嗣のためではなくて……」
「別の誰かのためだと言う気か?」
「それは……中嗣のためだけれど。あれは別に……見ていられなかったから少し手伝っただけで。そこまで大袈裟に扱うものでは……」
「君が私のために書いたものには違いないだろう?だから、彼らにはとても見せられなくてね」
長く息を吐きそうになった華月だが、ここで良きことを思い付き、それを止めた。
「分かったよ。分かったから。書くから、降ろして?」
「何故だ?」
「何故って、このままでは何も出来ないでしょう?」
「いつもなら私が抱えていても、構わず書いてくれるではないか」
「なっ……。構わずなんて書いていないし!いつもだって、中嗣が邪魔だったんだからね!今も邪魔になるの!書いて欲しいなら、邪魔だから離して!」
悪い意味で、中嗣の心に響く言葉だったらしい。
くっと悲痛な声を漏らした後に、中嗣は渋々と腕の力を解いた。
すると華月は、嬉々としてするりとその腕から逃れ、短く床を這ったあと文机の前に座り直す。
「せっかく片付けたのに。それで、どれを?」
「すまないね。この書類を頼めるかな?」
一束の書類を受け取って、ぱらぱらと頁を繰って軽く眺めたあとに、華月は紙を用意すると、すぐに水入れの中の水を用いて墨を整え、筆を持った。
「華月に書類の模写をお願いしていたのですか?」
利雪が不思議そうに、そしてどこか恨めしそうに尋ねると、中嗣は首を振った。
「そうではないよ。まぁ、見ていてごらん。すぐに君に嬉しいものが手に入るからね」
利雪はきらきらと輝く瞳で、またこの世に字を生み始めた華月の背中を見やった。
ここで羅生がぼそりと小さな声で言う。
「例のあれですな」
「なんだ?羅生は何を書いているか、知っているのか?」
こそっと宗葉が問い掛ければ、羅生は何故か中嗣を見ながらにやりと笑うのであった。
「中嗣様がこそこそとお持ちの書類に面白いものが添付されていたからな。勝手に見ただけだ」
しっかりと聞いていた中嗣は振り返り、鋭く羅生を睨んだ。この男も、感情を隠すことを忘れるようになっている。
「何を勝手に見ているのだ?」
「共に保管しておかれた方がよろしいでしょうに。わざわざ別にして隠し持つ方がどうかと思いますがな?」
「あれは私のためのものだからね」
「そこまで狭量だから、邪魔だとあしらわれ、まだ一人前にもなれぬのですぞ」
「くっ。そもそも君には関係なきことだろう?私たちのことは、放っておくといい」
「関係はないですが、こちらとしては、そろそろ飽き飽きとしておりましてな。意気地がないにも程があると言いますか。揶揄う楽しさも失った今となってはもう、早うお抱きになってそれについて弄らせていただく方が――」
中嗣は慌てて大きな言葉を被せ、羅生の言葉を遮った。
「君はこんなところで何を言い出すのだ。華月の耳に良からぬ言葉を届けるとは。彼女が穢れたらどうする?」
「穢れるなど。これは妓楼屋に通う娘ですぞ」
「これとはなんだ、これとは!それにもう通ってはいない!」
「通わせぬようにしているのでしょう?そういうところが狭量だと、遊女たちからも責められるのですぞ」
「くっ。彼女たちからの評価など、私には影響のない話だ」
「そうでしょうかな?あの遊女たちならば、華月には多分に影響を与えそうですが?」
「左様なことをさせるわけが――」
というように、不毛なことを言い合う男たちを無視して、あっという間に華月は筆を置いた。
華月がまったく聞いていなかったのは、この娘にとってこそ、救いとなったであろう。聞いていたら、また使いものにならない娘に変貌していたかもしれない。
「何を騒いでいるの?ほら、書いたよ?これでいい?」
華月の声に、中嗣は穏やかに微笑み、先までとは別人のような顔を見せた。鬼のような顔で羅生を叱っていたというのに、この変わり身の早さは流石である。
「あぁ。助かるよ。君のおかげでいつも楽になる」
「嘘ばっかり。こんなもの、中嗣なら書くほどのことではないでしょう?」
「今はこの一つだからそう思うのだよ。これがあるのと、ないのとでは、私の仕事のしやすさが格段に変わるからね。彼らがここから学んでくれると有難いが……さて、君たちに言っておくが。今回のこれは、私だけのためのものではないから、特別に見られるものだと思ってくれたまえ。この有難さを噛み締め、この紙から――」
中嗣が言い終えるのを待たずして、利雪は中嗣の手から紙を奪い取った。
中嗣もこれを予期していたのだろう。怒らずに苦笑を浮かべた後には、紙に夢中となった部下たちの存在を忘れるようにして、なんとか後ろから華月を抱えようと試み始める。
それも「邪魔だ」の一言であえなく失敗に終わったが。
ところが華月は甘かった。明らかに落ち込んだ中嗣を見ていたら、なんだか悪い気がしてきて、「んもう、仕方がないなぁ」と呟いてしまう。
この男を調子に乗らせているのは間違いなくこの娘だと、羅生は改めて理解するのだった。口を挟みはしなかったが。
中嗣が華月を嬉々として抱き締め、膝に乗せたところで、利雪からようやくの声が漏れる。
「なんと……なんと素晴らしいのでしょうか!」
それは感動に打ち震えた声だった。
一方の宗葉は、貸せ、貸せと願ったが、その紙を利雪がどうしても手放さないため、横からのぞき込むことにして大きな体で利雪に近付くと、すぐに言った。
「どれどれ……む?なんだ、これは?」
「まさか宗葉はこれでも理解出ぬ程度の頭なのか?」
傍観者という顔でいた羅生は、後ろから二人を見守るようにして偉そうに声だけを掛けるのである。
宗葉もこれには少しむっとしたようで、口角を下げていた。
「前から思っていたが、羅生は俺を見下していないか?」
「ははは。まさか。それで、どう思ったのだ?」
「いや、これは素晴らしいぞ。これがあれば、俺でも仕事が出来そうだからな」
羅生は呆れた声で「だから、見下されるのだぞ」と呟いたが、宗葉は利雪と盛り上がり、すでに羅生の言葉を聞いていない。
「これがあれば、私たちの仕事はどれだけ捗りましょうか」
「その通りだな。この無駄に分厚い書類を読み込まなくても済むようになるぞ。されど、中嗣様が斯様に狡猾な術で楽をしているとは思わなんだ」
「確かにこれは狡いですね。この美しき字で書かれたこの一枚があれば、どれだけ仕事が素晴らしきものに変わっていたか――」
「いや、俺が言っているのは、そういうことではなくてだな。俺たちが苦労して書類を読んでいる間に、中嗣様がおひとりで楽をされていたという件が――」
こほんと咳払いをした中嗣が、「待ちたまえ。君たちはどうしてそう、本質を捉えぬまま、論点をすり替えてしまうのだ?」と情けない声で問うた。
華月もこれには同情して肩を竦めたし、羅生も呆れた様子で嘲笑を浮かべている。