9.どこにでも飛んでいけるから
柔らかな光の中で微笑み合っては、また話が進む。
階下の写本屋の店先に客はないようで、そこにいるはずの玉翠の気配も二階までは届かず、静かな昼下がりだった。
「良き家にある子どもたちは、身なりの悪い子どもとは卓を並べたくない。そう思うのでしょう?」
「多くの子どもは嫌な顔をすると思う。それだけで済めばいいけれど。そんな子たちには相応しい場ではないと、追い出そうとする人たちが出て来るのではないかな?」
利雪は大きく頭を振ると、また美しく微笑んでみせた。しかし今度の笑顔からは、美しき薔薇に必ず潜む棘のようなものを感じ取る華月である。
純真という言葉が似合い過ぎた男が、毒を知ってさらに美しくなろうとしていた。
「そこで権力を使おうかと。ご存知かもしれませんが、主上さまの前では、子どもたちは平しく同じ立場であるという教えがあります。この有難い教えを盾に、どの子どもでも学ぶことが出来る場を整えていく所存です。これに反対出来る人はそういないでしょう?」
「どの子どもと言うけれど、どこまでを考えているの?」
「当然、橋の下や路地裏の子どもたちまでも含みますよ。学びの場は、彼らを保護する役目も担う予定ですからね」
華月は吃驚した。利雪が橋の下や路地裏に集まる子どもたちの存在を知っているとは思ってもみなかったからだ。
それはつまり、物乞いか、あるいは祭りで捕まったその子どものように盗みを働いて、なんとか命を繋げている子どもたちのことである。
彼らは時に見廻りの武官らによって街から一掃されることがあるのだが、気が付けばまた同じように子どもたちがその場所に居ついていた。
この美しき男がそんな危うい場所に足を踏み入れたことがあるとは思わないが。
誰かから聞いて学んだということだろうか?やはり羅生だろうか。いや、きっと羅生だろう。
華月は羅生の顔を思い浮かべては、一人頷く。利雪に世の醜い話を出来るとしたら、彼くらいではないか。
中嗣もどこか、利雪や宗葉の扱いには、その育ちの良さを鑑みては戸惑っているところがあることを、華月はよく知っていた。
しかし実は、これを教えたのは利雪が師匠と呼んで慕う子どもの方である。華月の読みがいつも正しいとは限らない。
「されど一概に学びの場と言っても、どこで、どのようなものが求められているか、これを知ることは、大変難しいことでした。読み書き、計算の最低限のことは学んでいただくとしても、世を変えるにはこれだけでは足りないでしょう?だからと言って、私たちのように、官になるための試験に合格するための学などを得ても、市井では役に立つかも怪しいものです。ここで私は、楊明殿のお言葉に助けられることになりました」
「岳にも相談していたの?」
利雪はゆっくりとかぶりを振った。
「以前、あの領主殿の前で少々お怒りになっておられたでしょう?あのときの楊明殿は、商いをする者として発言されていたように思いますが、人の価値を上げるという考え方を、学びの場にも適応することにしました」
「人の価値を上げる教育ね……うん、面白そう。具体的には?」
「まず、あの場にいた子どもたちのことを考えますと。農耕技術について、深く学んだ者がいたら、領主殿からの扱いはどうなるでしょうか?」
華月はうぅんと唸る。
「待遇が良くなることを期待しているのだったら……」
「利用されるだけに終わらせてはなりませんね。それも分かっていますが、その者が逃げ出さないようにと考えるようにはなるでしょう?」
華月はなおも顔を曇らせた。
「逆に監禁されるようなこともあり得ると思うけれど。家族が人質にされるかもしれないし」
「そうですね。その辺りはよく考えねばなりませんが。人の売買を禁じたとき、人が人を所有するという考えも消滅することになります。これはつまり、働く際には雇用契約を結ばせて、働いた分の給金を正しく受け取れる世を作るという意味です」
「そこまで……そうか。人が誰の所有物でもなくなるなら、給金も……」
理想的な世を想像しているのに、華月の表情はまだ晴れなかった。
その様子に、利雪はまたしても嬉しそうに笑うのである。
「反発は酷いことになるでしょうね。この辺りは、中嗣様からもよくご助言頂いているところです。何やらかつて、似たような話が出たこともあるようでして」
「そうなの!」
「はい。失敗に終わっておりますので、正式な記録もなく、詳細は分かりませんが。当時も人の売買を禁じ、子売り小屋も廃止にしようとしていたらしいのです。これが記録されぬままに終わったということは、宮中内部を整えることも叶わなかったということなのでしょう」
華月はうんうんと頷いた。人の売買を撤廃し、誰にでも給金を払う世に変えると宣言したら、どこよりも先に宮中にいる者たちが反対するであろう。
屋敷の下働きの者には小遣い程度しか与えない官が多いし、それさえ出さない官もある。寝床と衣装、それから食事を提供しているのだから、それで十分だという考えだ。領地を持つ者、店を経営している者などは、なおのことである。
そして働けば、お金を得られる。その考えが広まった先には、宮中にとって最も恐ろしい思想の誕生が懸念されるだろう。
官たちは何もせずに税を取って楽に暮らしているではないか。もちろん宮中では世のためにしていることも多々あるのだが、多くの庶民は偉そうに街を歩く武官や、税を取り立てるときにだけ現れる横柄な文官たちの存在しか知らず、世が変わるにつれて官たちが不満を集める対象となることは間違いない。
これを回避するためには、官が良く働いている様を世に見せていかなければならず。
こんなことを望む官が多くいるはずはないだろう。
「宮中で協力者を増やすとしても、そのためにはまず実績が必要となります。宮中にいる皆さまは、どうも変化をお嫌いのようでして。目立った実績があれば、乗って来る者がいるだろうとのことなのです」
「それは中嗣が言っていたの?」
「えぇ。それから羅生殿もそのように言っておりました」
中嗣、そして羅生に鍛えられて、利雪はこうも変わったのだと、華月は知った。
そこで懐かしい老人に対し、何故己にも利雪の世話を頼んだのだと、聞きたくなる。