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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第七章 ふれるもの
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7.羽化したばかりの蝶は美しく



「まだ一年も経っていないのですよね」


 すぐに本題に入るかと思っていた華月は、利雪の言葉を受けると、またしても首を傾げた。

 利雪は何が言いたいのだろう?


「あなたと出会ってからのことです。あなたの写本を知ってからはもう少し時間が経っておりますが。あなたと直接話すことが出来るようになるまでに、あまりに時間を掛け過ぎましたね」

「確か……梅が香り始めるくらいの頃だったかな」

「えぇ。まもなく一年」


 しみじみと感慨深く利雪は言って、途端に眉を下げた。


「あなたとはもっと早く友人になれていたらと。今もなお悔やまれますね」

「そんなことを悔やんでいたの?」

「えぇ。昨年は本当に、あなたから学んでばかりの一年でしたから。私はずっと、それらについて考え、そして私には何が出来るのかということも、考え続けてきました」


 華月は黙って頷いた。

 実は華月はこのとき、美しい男が真剣に話す様を前にして、完成された美術品には手を出してはならないという謎の使命感を感じていたのだ。

 それで黙っていたのだが、もちろん当の利雪には華月を沈黙させる気は一切なく、むしろ多様な意見の提供を望んでいるところだった。


 と、同時に華月は考えていた。

 利雪のこの異常なほどの美しさをもっと利用したらどうか。この清らかな男には酷な話であるならば、本人に分からないようにして、誰かが上手く活用すると……。

 その先がどこに繋がっていくか、華月は気付きたくなくて、自ら思考を止めた。ここにない男を思い出しては、言いたいことも言えなくなるというものだ。


 華月の心情の動きなど知らぬ利雪は、美しい顔で朗々と語っていく。


「これからあなたにはとても失礼な話をしますが、どうかお許しください」


 利雪は華月が頷くと、すぐに次の言葉を重ねた。


「子売り小屋という存在を、恥ずかしいことに私はよく存じておりませんでした。存在は知っておりましたが、私の認識では、親を亡くした子どもや、親がどうしても養えなくなった子どもたちが、預けられ、育てられる場所だと捉えていたのです。ですから彼らが商品であるという認識は一切ありませんでした」


 華月はただ素直に頷いた。


「利雪は知らなかっただけでしょう?それなら、私に許しを乞う必要はないよ」

「そうかもしれませんが、そうしなければ、私は私が許せないのです。その名から察することは容易に出来ましたでしょうに、私は子売り小屋という存在を知ってから、一度もこの小屋について深く考えることがありませんでした。官にあっては、無知こそが罪で、浅慮であってはならない。あなたに会ってからというもの、私はそのように考えるようになったのです」

「無知こそが罪?」

「えぇ。そして無知であることと共に、浅慮、つまり熟考しないこともまた罪であると考えます」

「考えないことまでも、利雪には罪になるの?」

「私は官ですからね」


 華月は床に落とした視線を彷徨わせた。

 考え過ぎることを気にし、いつも考えないようにせねばと自分を責めてきた娘だから、利雪の言葉に感じるところがあったのだろう。


「そんな無知な私は、子売り小屋をとても素晴らしい施設だと捉えていたのです。親をなくした子どもたちが温かく迎えられ、そしてやがては、その小屋からどこかの豊かな家などに貰われて、幸せになる。このような浅はかな考えを持つ男が官であるとしたら、それはとても罪深いことだと思いませんか?」


 華月は静かに首を振った。


「知らなかった利雪を責める気にはならないよ。それに確かに子売り小屋を出て幸せになる子どもは存在するみたいだからね」


 華月もまたこの一年で大きく成長していた。以前の彼女ならば、ここで利雪の考えに同調し、もっと嫌味を伝えていたはずである。

 それでも利雪は悲しそうに眉を下げながら、自嘲して薄く笑った。


「それはとても稀有なことなのでしょう?」

「そうだね。でもその稀な子どもが、ここに存在しているよ」


 華月もまた自嘲気味に笑ってみせた。己の今の幸運を考えてしまえば、子売り小屋がそう悪い施設とは言えなくなる。あの時があってこそ、華月は大事な玉翠という親代わりの存在を得られたのだから。写本師になれたのも、子売り小屋で育ったからに違いない。

 たとえ周りが不幸な娘だと捉えても、華月にとって子売り小屋での暮らしは、今の幸せになくてはならない経験だった。


 華月の字をあくなき求める利雪は、これを分かっているのだろうか。


「私はしかも、子売り小屋でお金の動きがあることを知っていました。それでも少し前までの私は、裕福な者が子どもを引き取る際に小屋にお金を渡しているだけだと思っていたのです」


 華月はここで首を捻る。


「ん?その通りの意味だけれど?」

「いえ、かつての私はすべてを慈善的な意味に捉えていたという意味です」


 華月は深く頷いた。そういう風に捉える人間が稀に存在することは知っていたからだ。

 それが子を買う者となると、引き取る子の代金よりもずっと多い金額を支払っていくらしい。


「そういうことね」

「はい。小屋に残る子どもたちは、そうして世の人の善意により生きているのだと。愚かにも私は人の善意だけを信じて疑いませんでした」

「確かにね、多くの金額を払うお客様がいると聞いたことはある。でもそれは」

「子どもを救う用途には使われないと考えていいですね?」

「そうだね、残念ながら。いい環境の子売り小屋というものを私も今までに聞いたことがないからね」


 妓楼屋には、華月の知らぬ子売り小屋から売られてきた娘たちもいて、華月と過去の話をすることもあるが、そこが素晴らしい環境だったと言った遊女は今もない。

 彼女たちは、皆見目美しく、売れる商品として大切に扱われていた方に違いないが、それでもそうなのだから。


「私がいかに愚かだったか、お分かりでしょう?それだけでなく、私は小売り小屋にある子どもたちは皆、それは大切に育てられていると思っていたのですよ。まさか働き手にされているなどとは露ほどにも思わず、大人に衣食住を整えて貰い、将来のために勉学に励んでいるのだろうとまで思っていたのです」


 このように言えることは、利雪自身が大いに恵まれた環境で育ったことの証明であろう。

 幼い頃から触れてきた世界がひとつしかなかったら、世にはそれしかないと信じてしまって、何が悪いのだろうか?

 華月は想い、首を振った。やはり成長している。


「それも悪いことではないと思うよ。利雪は知る機会がなかったんだから」

「これが市井の民であれば、世を知らぬ男だと笑っていられたかもしれません。されど私は官。知らなかっただけで済ませてはならないのです。そして知ったからには、官として何もしない者でもいられません」


 華月の少しの戸惑いが瞬く間に消失したのは、利雪の美しくも真剣な顔に、華月がまたもや圧倒されたからである。





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