4.大きな部下が成長を見せる
中嗣の表情が強張ったことを確認すると、すぐに宗葉は手元の書類に視線を戻した。
書類は逃げ場として使えるものだということは、ここ最近で宗葉が学んだことである。
山となった書類に手一杯で、上司も不在の今は対応が難しい。これはこの部屋にやって来る訪問者たちを最もよく引き下がらせる言葉だった。
中には宗葉に同情して去っていく者もある。これだけの仕事を上司から押し付けられて、可哀想だというところだ。
「今日は共に話をする約束だったね?」
「良いではありませんか。二人だけで話したいこともあるというもの」
「皆で話せぬことなど、利雪にはあるはずがない」
「利雪というより、あの娘への気遣いでしょうな。我らが揃えば、本音では語りにくいところがあることはお分かりでしょう。忌憚なき意見を求めれば、自ずと他者を排除して会おうとするもの。そもそもですな、中嗣様。何かあれば話をして来いと、寛大にお許しになられていたではありませんか。利雪はそれに従っただけとも言えますぞ。なぁ、宗葉?」
またしても「うぉっ」という変な声を漏らした宗葉は、咳払いをしたあとで「えーと……そうだったか?よく覚えておらんが」と知らぬ振りをした。しかもそれでは終えずに、「それよりこの書類のここは……」とぶつぶつと独り言をつぶやいて、ここでも書類を完璧に活用してみせる。
しかし思いのほか中嗣の機嫌は悪化しなかった。
中嗣は「仕方ないか」と囁き、「これからは前もって知らせて欲しいものだよ」と声を大きくして続けた。もちろん、これは部下の二人に言っているのである。
それを分かっているのに、羅生は素直に従おうとしなかった。
「前もって知らせては、ご一緒されてしまうではありませんか」
「そうしないと約束すれば良いのだろう?華月と二人で会いたいときには、そう言えばいい」
「おや?少しは余裕が出て来たようで、安心しましたぞ。いやはや、斯様に囲っていては嫌われるのも時間の問題かと思っておりましたがな。これが杞憂で終わるならば結構」
この部屋で涼やかに笑う必要はなかったので、中嗣はぐっと眉間に皺を寄せて羅生を睨んだ。
羅生にどう思われていようと別に構わない中嗣でも、華月に嫌われると言われては、心穏やかではいられないのである。それは誰に類似なことを言われても同じことだろう。
中嗣の心を搔き乱す者は、いつも華月だけだった。
「あの子のことを分かったように言わないでくれ」
「ははは。これは失礼。されど、外から見ていた方が分かることもあるというもの。というより、あれは存外分かりやすい娘ですからな」
「あれだの、娘だの、失礼な物言いは辞めて貰えないか?」
「あの娘なら気にしませんぞ」
「私が気にするのだよ。本当に、君はもう少しでも発言の仕方を変えられないものか?」
羅生はさて、次の書類に手を掛けながら、自嘲気味に薄笑う。
「何を言われても私は変わりませんぞ。これは生まれついての性質ですからな」
「何を開き直っているのだ。少しは変えようとしてくれ」
「中嗣様がもうしばし変わられたときには、考えるとしましょう。そうですな。せめて一人前の男になられてから検討することが妥当かと」
いよいよ、中嗣の機嫌の雲行きが怪しくなってきた。
冷えていく部屋の空気を感じ取らないように必死になって、宗葉は書類の内容に集中する。
「斯様に不躾な発言をする男を彼女に近付けるわけにはいかないな」
「なんと!他に頼れる医官が存在しておると?」
集中しようとしているのに、つい気になって宗葉は顔を上げてしまった。
年末から長く寝込んでいたと聞いたが、華月はまだどこか悪いのだろうか?と心配になったからだ。
しかし宗葉の求めるものは明確にならぬまま、会話は流れていく。
「君でなくても構わないだろうし、別の者を検討させてもらうよ」
「冗談は、その腑抜けた態度だけにしておいてくだされ」
「冗談なものか。今日もここで留守番をしているといい。思えば、君が行って話す必要はなかったからね」
「これまた冗談が酷過ぎますぞ。ようやくあの小童を磁白殿に任せられるようになったところではありませんか」
「磁白と共に留守番をしながら、仕事を進めておいてくれたまえ」
「私が出向いた方が、あの娘のためになりましょうぞ。あれだけ色々あっては、今の宮中はどうなっているのかと不安に思っておりましょうし、今日は揃って顔を見せておく方がよろしいのです」
宗葉の心が揺らぐ。それでもまだ、手は書類を掴んでいたし、その文章を追っていた。
そう、以前の宗葉ならば出来なかったことが出来るように変わっている。お喋りに耳を澄ませながら、書類を処理することが出来るようになったのだ。
まだ己が発言するときにはどうしても手が止まるし、突然呼びかけられては驚いてしまうのだが。それでも宗葉にとっては大いなる成長に違いない。