3.主導権は誰にある
「中嗣様はそう仰いますが、こちらに来る方々の位をご存知であれば、私などの立場では言い返すことが出来ないこともお分かりでしょう!」
宗葉が強い口調でそう言ったとき、中嗣は眉を上げて面白そうに微笑んだ。
これは嫌な笑顔ではないな、と分かり宗葉は心底ほっとする。
つい言ってみたものの、即座に後悔し始めていたのだ。
「おや?私など、君より位の低かった頃から、誰が相手だろうと思うままに語ってきたものだよ」
「それは中嗣様が特殊なのですぞ。同じものを周りに求めないでくだされ」
「そうですとも。中嗣様は賢いから、誰を相手にされようと口では負けぬのでしょう。私がそれをしても、言い負かされて終わるだけです」
羅生に加勢されて、宗葉も勢い口が滑る。
それでも中嗣は特に悪い笑顔を見せなかった。確かにこの男はすこぶる機嫌が良かったのだ。
「それはどうだろうか?私の対応の仕方は、とても賢いものとは言えないように思うが。君もそう思わないか、羅生?」
「えぇ、思いますとも。頭が固過ぎて敵を増やす発言が目立っておりますからな。もっと柔軟に愚か者たちを煽てるようにして、駆け引きを楽しんでやればご自身の都合良く物事が運びましょうに。賢い方であるのに、どうしてそのような容易きことが出来ぬのかと常々思って参りましたぞ」
「……君の言い方はもう少しでもどうにかならないものか?」
華月以外の誰が何を言おうと大して傷付かない中嗣であるが、それでも少し心が抉られたのだった。
羅生はどうしたことか、興に乗って格段に饒舌となっている。
「私もまた、この通り敵を増やす質にある男でしてね。常々そのように考えていようとも、宗葉のように、誰に対しても柔らかい物言いなど出来ぬのですぞ」
「そうは言っても、君は人をよく選び、発言を変えていよう」
「これは、これは。意外とよく見ていらっしゃるのですな。そうですとも。私も相手によっては、嘘八百で気分を上げてやり、己には決して火の粉が被らぬように気を付けておりますぞ」
「悪く伝わったのなら申し訳なかったが、今のは人付き合いが上手いと、褒めたつもりでね」
「なんと。これは有難きに御座いますな。こんな珍しき日には、雲一つない晴天に雨でも降りましょうぞ。されど、その珍しいものが大事なのですぞ、中嗣様。誰と話すにしても、とりあえず褒めておけば、人心の掌握など容易いものです」
偉そうに言われては、中嗣も苦笑してしまうのだった。確かに珍しいことをしていると感じながら、その意識は続いて宗葉に向かっていく。
「心なく褒めようとは思えないが、その意見は貴重だな。人付き合いという点では、近頃は未熟さを感じることも多くてね。君たちから学びたいと思っていたところなのだよ。見ていると宗葉もなかなか上手に上辺だけの付き合いをしているようだ」
褒められているはずの宗葉は見る間に青ざめた。
「な、何を仰います。上辺だけなど」
「ははは。見透かされておるぞ、宗葉。中嗣様には心からの付き合いをしておくのだったな」
「な、な、な。その物言いでは、俺が中嗣様にも上辺だけで付き合ってきたように思われるではないか!」
「なんだ、違うのか?」
「違う。違うぞ。勝手なことを言わないでくれ。ち、違いますぞ、中嗣様。私は今までに中嗣様と上辺だけの浅い付き合いをしたいなどと考えたことはなく……」
酷い慌てようには、かえってそれが真実だと語っていることとなる。
まだまだだな、と同時に想う羅生と中嗣であった。これを上手く隠せるようになったとき、宗葉はもっと使える男になっているだろうと、それぞれに同じことを考えている。
「部下となっては心から慕うようにと思ったこともないから安心したまえ。私のことも己の良きように利用するといい。今は不甲斐なき私に対し利用価値さえ感じられないかもしれないがね」
「そんな。利用価値がないなどとは……」
宗葉の言葉が止まった。あるともないとも断言出来ない宗葉である。
中嗣は小さく笑い声を漏らしては、宗葉を安堵させることにした。本当に不快な気分は一切生じていないのだから、これは心からの気遣いである。
「そう構えることはないよ。私がそうせよと言っているのだからね。この部屋に誰が来ようとも、いつも君の上司が誰かを思い出し、これを利用すればいい。すべては次官にしか決められない、そう命じられている。そのように伝えることを君には特別に認めよう」
「……それは」
宗葉がすでにしていることであって、宗葉の顔色は一層悪くなった。
これを見て、中嗣は浮かべていた柔らかな笑みを一段と深める。
「君が今までもそのようにして来たと言うならば、それは正しい判断だよ」
「良かったのですか?」
「分からぬままに返答される方が困るからね。されども、ここにいて何も分からぬと伝えることは誰に対しても避けた方がいいだろう。だから、自分には考えがあったとしても決定権はない、判断が出来ないと答えるようにしなさい」
「それでは私は何のお役にも立てないのでは?」
「そんなことはないよ。追い返してくれるだけでこちらは大助かりだ。まぁ、少しずつ自分で判断出来る領域を増やしていくようにとは願うがね」
「それは申し訳ありません。私はどうも理解が遅く、とても判断するところまでは気が回らずに……」
「特別遅いとは感じていないよ。近頃は書類の回りも早くなってきたし、私の下に付いてからの変わりようとしては上々と言っていい」
ここで宗葉は目を丸くして、中嗣を見やった。
大きな体をして幼子のような素直な驚きを見せた宗葉には、思わず誰かを重ねて微笑んでしまう中嗣である。
「私の仕事は早くなっていたのでしょうか?」
「最初よりはずっとね。この調子で頼めるか?」
「は、はい。もちろんですとも。お任せを」
胸の奥がじんわりと熱くなって、涙が出そうになっていた宗葉の気持ちはすぐに萎えることになった。
羅生が嫌らしく笑ったからだ。
「ははは。こうしてまた良きように部下を使っていく算段ですな。どうせ宗葉や利雪にすべてを任せ、ご自身はあの写本屋で呑気に暮らしたいというのが本音でしょう。如いては、早々に隠居しようとでも考えておられるのでは?」
「ふむ。隠居か。それはいいな」
「せめて否定してくだされ。喜んだ宗葉が哀れではありませんか」
それはお前のせいだ。と思う宗葉は閉じた唇を歪めていたが、書類に視線を落とし、その内容に集中し始めた。
されども、残る二人のお喋りは止まらない。
「私を越えて立派になるよう願うことの何が悪い?」
「華月と遊んで暮らしたいと言っているようにしか聞こえませんぞ」
「君の耳がおかしいのだろう。さて、そろそろ帰りたいのだが。利雪にも出掛ける準備をするようにと伝え――」
「利雪ならば、もう出ましたぞ」
「ん?」
「利雪はもう写本屋ですが、何かありましたかな?」
空気がぴりっと張りつめたことを敏感に受け取って、一度顔を上げてしまう宗葉だった。
まったく仕事にならない環境であるが、これがまた宗葉を鍛えていることに本人が気付くまでには、まだまだ時間が掛かりそうである。