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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第七章 ふれるもの
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2.その頃他の男たちはと言えば


 紅玉御殿の自室に戻ってきた中嗣は、溢れんばかりの喜びをその表情に隠そうとしなかった。

 にやけた顔で「ふふふ」と笑っている姿には、最初からそこにいた羅生と宗葉が顔を引き攣らせている。


「怖いを通り越して、気味が悪いですぞ。中嗣様」


 いつもの調子で羅生は言ったが、こうなった中嗣には嫌味など通用しない。

 自然に綻んだ笑みを崩さず、朗らかな声でこう返した。


「好きに想えばいい。君にどう思われようと私には何ら影響がないからね」

「私だけが感じることではないから指摘しておるのですぞ。なぁ、宗葉」


 急に名を呼ばれた宗葉からは、「ぐぉっ」とおかしな音が漏れたものの、すぐに言葉は返って来なかった。

 上司を前にして、どうして素直に気持ちが悪いと言えようか。宗葉は困惑して、羅生にそれを目で訴えるも、羅生はふんと鼻を鳴らすだけだった。

 そして中嗣も同じように、羅生に対して笑って見せる。


「ふっ。羅生。私をやけに気にするのは、君だけのようだよ」

「これは、これは。可愛い部下の気遣いも理解出来ぬとは残念ですな」

「宗葉と同じようにとは言わぬから、君にももうしばしの気遣いの心を持って欲しいものだね」

「さてさて。私などよりは、どこかの娘もまた、気味が悪いから辞めろと言って、誰かを叱りつけそうなものですが?」

「……君にあの子の何が分かると言う?」


 瞬く間に顔を曇らせる中嗣を見て、羅生はにやりと片の口角を上げて見せた。


「ほぅほぅ。つまり中嗣様は、それほどに華月の気持ちをお分かりになられていると。これはようやく一人前の男になられたと思って宜しいのですな?」


 ますます顔を曇らせた中嗣を見ては、羅生は声を上げて笑っていた。


「ははは。まさか、まさか。未だにその程度でご機嫌になられるとは。やはり薬が必要となりましょうか?」

「辞めろ。余計なお世話だ」

「いやはや。もはや御病気を疑わずにはいられない状況ですぞ」

「私は君と違うのだよ。君のような、理性の働かない男と一緒にしないでくれたまえ」


 さて、理性が働いているかと言えば、近頃怪しい中嗣であって、発言の最後の方は声の張りが失われていた。意識せずともこの種の発言には、自戒の念が浮かんでくる。


 羅生はいよいよ大っぴらに馬鹿にした態度を示し、手を払って嘲笑った。


「私の方こそ、中嗣様とご一緒にはされたくないですなぁ。六つも年下の女をいつまでも懐柔出来ぬ意気地のない情けなき男と同列になりたいなど。願う愚かな男はどこにもおりませんぞ」

「……空耳が聞こえるとは、私も歳かもしれないね」


 中嗣がにっこりと微笑みそう言ったとき、宗葉はぎゅっとその大きな身を固くした。

 上司の涼しい笑顔は、向けた相手だけに有効とならず、周囲の者の心の臓まで止めようとしてくるのだ。


 しかしどうしたことか。はっきり笑顔を向けられている羅生の方は、飄々としたもので。


「空耳なものですか。まだその程度におって、そのように浮ついた様子は辞めていただきたい。とてもこちらの身が持ちませんからな」

「何故君の身が持たない話になるのだ?」

「見ていて不快なのですぞ。この先は、さらに不快になると考えるだけでも恐ろしいではありませんか」

「見なければいいだろう?」

「嫌でも目に入るところにいらっしゃるのですぞ」

「それは大変だな。それで、君は何用でここにいるのだ?」

「この書類の山が見えませんかな?」


 羅生は大袈裟に、周囲を見渡してやった。確かに書類の束は以前より増え、部屋の至る所に積まれている。

 もはや三人は紙の束に囲まれて過ごしていると言えよう。


「君が対応しているのは、医官の書類だけであろう。この場に拘ることはあるまい。黄玉御殿で処理してきたらどうだ?必要なら、書類はすべて人に運ばせよう」

「どうせここに戻ってきますが?その手間をどうお考えで?」

「それは君がここに戻って来るからだろう?」

「書類を持ってこちらに行けと送り出されるのですぞ?私でなくとも、対処出来ましょうに」

「不満ならば、医大臣殿に伝えたまえ。君が対応しているのは、すべて黄玉御殿で完成させるべき書類であって、私が言っていることはそこに不備、不足があるから通せないということだけだよ」


 羅生はやれやれと首を振ると、医官の重要書類を捌いていく。とても五位の医官が手を出す書類ではないのだが。

 そうして不満気にまた口を開いた。


「上に不満など伝えれば、私はこの書類仕事からも外されましょうが。それで中嗣様もご満足していただけるのでしょうな?」


 中嗣は息を吐いてから、「悪かったよ。だが、ここは私の自室でもあるし、しばし気を緩めることくらいは認めてくれないか?」と言い始めた。


 これを受ければ羅生からも拗ねたような態度が一瞬で鳴りを潜め、羅生はにやにやと笑いながら、「それほどに嬉しいことがおありで?」と問い掛ける。

 結局、事情を聞く男ではあるが、前置きとして悪態をついておかねば気が済まないらしい。


 宗葉としては、はらはらして気が気ではないので、心から辞めて欲しいと願っている。その宗葉も今は書類の対応に必死だ。


「特別なことではないさ。会議も早々に終わったことだし、今日は予測よりも早く帰れそうだと思えば嬉しくてね」

()()()()()()()()()()()()の間違いでしょう?」

「私は無駄を省いただけだ。決まったことを長々と話し込む必要はないだろう?」

「それも()()()()()()()()()でしょうに。あまりに意思を押し通していては、ご不興を買って後から揉めることになりますぞ。たとえ正義を貫こうと、愚鈍な者らは己の過ちには気付かず、正しい者に対し恨みしか持ちませんからな」

「その類のことには慣れている」

「中嗣様がいくら慣れていようと、宗葉などは大いに苦労することになりましょうぞ。それは構いませんので?」

「うぉっ?」


 再びくぐもった音が大きな体の男から漏れた。

 耳を澄ませて会話を追っていたのだが、急に名を呼ばれることには一向に慣れぬらしい。


「おや?宗葉にも何か苦労を掛けてしまっているのかな?」


 どこかわざとらしい明るさで中嗣が問うたので、宗葉は慌ててしまう。


「い、いえ。とんでもない」

「こういうときは、はっきり伝えておいた方が良いぞ、宗葉」

「な、何を言う。俺は別に……」

「言いたいことがあるならば、しかと聞くよ。善処出来るかどうかは、聞いてからの判断になるがね」


 羅生に後押しをされたうえに、中嗣から爽やかな笑顔で言われても、宗葉は目を泳がして、最後には手元の書類に視線を落としてしまうのだった。


 言いたいことなど山のようにあるが、簡単に言えるわけもない。おおよそ、すべてが愚痴と不満になるからだ。


「君は意外と実直だからね。相手を選び、適当に流す術を覚えるといい」


 まだ何も言っていない宗葉に、中嗣が助言らしいことを伝えてきた。宗葉ははっとして顔を上げる。


 この上司、何もかも分かって、仕事を丸投げしていたのか?

 こちらの苦労を分かったうえで、好いた娘といることを選んでいたと?


 そうだと知れば、宗葉もなんだかむかむかとしてきて、つい口を開いてしまった。




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