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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第七章 ふれるもの
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1.美しき訪問者あり


 利雪は凝視するのを辞めて、目を閉じた。より鮮明に耳に届くようになった音に、心の奥にある琴線を揺らされて、利雪はうっとりと口角を上げていく。


 筆が紙を擦る音がこうも美しいとは。

 美しいものとは、それが生み出される過程のすべてが美しいのだ。


 目を閉じたことで、利雪にはもうひとつ鮮明に感じられるものがあった。

 墨の香りと新しい紙の匂いである。


 墨も紙も幼い頃からよく触れてきて珍しいものではないのに、ここで味わうそれは何かが違った。

 より洗練されて香るそれに、静かにしようと決めていた利雪からも思わずほぅっとため息が漏れる。


 聖香と呼ばれる高級な香がある。焚けばその場の邪を祓う効能があると信じられているそれは、宮中では長く使用されてきた香で、決して同じ匂いではないのに、利雪はこの場に漂う墨と紙の混じり合った香りをその聖香と結び付けていた。


 この部屋の空気が清らかに澄み切っているせいだと利雪は思い至り、一人納得する。


 やはり出来上がってくるものが美しいのは、作られる過程のすべてが美しいからに違いない。


 利雪はそれを確かめようと、ゆっくりと瞼を開いた。

 

 背中は丸まっているし、今日は足も横に崩されていて、綺麗に座っているとはとても言えないその後ろ姿が美しいのは、流れるような無駄のない所作が美しいせいなのか。

 

 誰かがここで見ていたら、間違いなく恋をする男だと錯覚しただろう。

 美しさの根源を確かめようと試みる利雪の瞳は、一層の熱を帯びて、背中を丸めた娘だけに向かっていた。



 それから、どれくらいの時間が経ったか。


 紙から筆が上がり、当然の流れとして筆先が傍らの硯の上に到着すると、利雪はすっと息を吸い込んだ。


「そちらがどこの国の書か、お聞きしても?」


 突然の声に驚き振り返った娘は、利雪を見てはわざとらしく眉を顰め、それからすぐに迷惑そうに口を開いた。


「んもう。いつも先に声を掛けてと言っているのに」

「申し訳ありません。どうしてもお邪魔をしたくありませんでしたので」


 華月はふーっと息を吐くと、「他の皆は?」と問い掛ける。

 利雪にはこの件で何を伝えても無駄だと知っているからだ。


「いえ。私一人です」


 華月の瞳に困惑の色が浮かんだ。今度は素直な感情で、眉間にも皺が寄る。


「中嗣はどうしたの?」

「中嗣様は重要な会議中でして」


 華月は首を捻ると、「まぁ、いいか」と呟き、片づけをすると言って立ち上がった。


「すぐ終わるから、下で待っていてよ。玉翠からお茶とお菓子を貰って」

「いえ、こちらにいます。出来たばかりの字を眺めていても?」

「読めないでしょう?」

「先の質問ですが」

「あぁ、うん。これはうんと西にある国の書だと聞いているよ。宮中とも関わりはないみたいだね」

「国交がない国の書でしたか。それは素晴らしい」


 そうでしょうとも!と得意気になった華月だが、何も言わずに片付けに専念した。どこからどうやって入手したか、言える書ではなかったからである。


 利雪は移動しながら、床に並べられている紙を眺めていった。

 知らぬ異国の文字など読めるはずはないのだが、それでもこの字は美しいと思う利雪である。

 ただ真似ただけの、いつもの写本とは違う、模写としか言わないそれが、元の書よりもずっと美しく感じるのは何故なのか。利雪は可憐に首を傾げながら、書かれた字を追い掛けた。

 知らぬ字でも、法則を知れば解読出来る。ということをつい最近学んだ利雪は、美しさに見惚れながら、見たことのない角ばった文字の規則性や共通点を探っていく。


「それで、どうしたの?」


 利雪がはっとして顔を上げて振り返ると、華月は真後ろに立っていた。持っている盆には茶瓶に湯呑み、それに茶菓子の煎餅と饅頭が乗っている。


 華月が一度階下に降りていたことにも気付かずに、利雪は文字に集中していたのである。


「手伝いもせずに、申し訳ありません」

「いいよ、別に。それで今日は私に何を聞きたいの?」


 床の空いたところに盆を置いたあと、並んでいた紙を拾い上げてまとめて文机に乗せてから、華月は腰を下ろして微笑んだ。


「私がここに来た理由をご存知で?」


 利雪も華月の前に腰を下ろしながら、驚いて問い直す。


「皆で来るという日に、わざわざ一人で先に来たんだから。何か話したいことがあるのだと分かるよ。まぁ、利雪だから。字を見に来ただけかとも思ったけどね」

「確かに写本をされている様子を拝見したいとは思っていました」

「ということは、今日はそれだけではないのね?」

「えぇ。ここしばらく私がしていたことの話になりますが。中嗣様と共にご報告させていただく予定でしたが、やはり先にお話ししたいと思いまして」

「ここしばらく?利雪の仕事の話なの?」

「そうですね。中嗣様より正式に承った仕事の話になります」

「それは、私は聞かない方がいい話ではなくて?」


 利雪はゆっくりと首を振った。「どうぞ」と言われて出された茶を口にして、しばし味わった後で、にっこりと美しく微笑む。


「どうしても、あなたにご意見を賜りたいのです。ご迷惑になるようなことはしないとお約束いたします。誰にもあなたからご意見を頂いたことは言いません。お分かりの通り、私があなたに何かすることもありませんし、どうか、思ったままを口にしていただけないでしょうか?」


 華月が素直に頷けば、利雪の肩から力が抜けた。知らず、少しだけ緊張していたらしい。


「つまり、利雪は今、官としてではなく、友人として会いに来たということね?」

「その通りです!さすが華月はよく分かってくださいますね!」


 元気いっぱいに答えられると、華月は苦笑しながら肩を竦めてしまうのだった。


 官が勢ぞろいしていたら、たとえ中嗣との仲があろうと、一介の街の写本師である、それも娘である華月には口に出来ないことがある。それを言えと、利雪は願っているわけだ。


 先に迷惑を掛けないと約束するとは。それも首を撥ねるようなことにはならないと確約してくれている。


 華月は利雪の短期間での成長を感じ取って、肩を竦めながらも微笑の質を変えていた。

 目の前の美しい男は間違いなく年上であるが、幼い弟の世話を焼いている気分になっている華月である。それは、華月がよく知った伝や美鈴に対する想いと変わらぬものであった。


 華月が年上の男にこんな想いを持ってしまうのは、少なからずかつてよく話した老人からの影響を受けていよう。彼は利雪らをなんと評していただろうか。

 思い出しては、華月はより優しい笑みを浮かべて、本当の姉のように利雪の話を聞くことになった。




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