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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第一章 おくりもの
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14.若者は手のひらで踊る


 利雪らが例の街の写本屋を訪れたとき、二人はそこで驚くべき人物と会うことになった。驚き過ぎて、暖簾を潜ったあとにしばし動けなくなったくらいだ。

 店主の玉翠の前には、見知った男の背中があって、聞き覚えのある声も聞こえていた。間違いない。

 玉翠の視線に気づき、男が振り返ったことで、それは完全な確信に変わる。


「おや、珍しいこともあるものだ。お二人もお客様かな?」

「中嗣様!」


 彼らより位の高い、三位の文官である。二十四歳。

 博識で聡明な彼は、いずれ大臣になるのでは、と囁かれる男の一人であった。

 中性的な利雪とはまた違い、男らしさの中に清涼さを感じる端正な顔立ちをしていて、すらりと伸びた長身がその清涼感を後押ししている。爽やかという言葉がぴったりの男だ。存在に嫌味がない。


 問題の家と関わりのない者だったことは、利雪らを多少安堵させたが、中嗣とてこれに関わっていないとは限らない。

 この若さで三位まで上り詰めているのだから、そこには、どこかの権威ある家の配慮があると考えた方が自然だ。文大臣か文次官の覚えがめでたいのではないか。

 ここに来た理由を察すると、利雪らの顔は青くなる。しかし中嗣の行動は意外なものだった。


「なかなか繁盛しているようだね、玉翠。では私はこれで」


 そう言って店を出るかと思い、二人は緊張を解いたのだが、それからまたすぐに異なる緊張感を覚えることになった。

 中嗣は店を出ず、履物を脱いで店に上がると、二階へ続く階段を軽やかに上り始めたではないか。

 利雪も宗葉も、またも呆然と彼の背中を見守っていると、玉翠が声を掛けた。それは先日のように、厳しいものではない。


「すぐに降りて参りますよ。お掛けになってお待ちください。今、お茶のご用意を」


 それから玉翠は、入り口の暖簾を下げて、奥へと消えていく。ため息をつくことが、彼の仕事なのだろうか。この僅かな期間に、何度目かも分からない玉翠のため息は、利雪らの耳に届いていた。


 二階からはすぐに声が聞こえた。中嗣と華月が話しているようだが、一階にいる二人には何を言っているのかまでは分からない。


「あー!!!」


 突然の大きな声に、どたばたと物音が続く。

 これには利雪らも慌て様子を見に行こうと考えたが、茶を持って現れた玉翠が穏やかに制するのである。


「どうかお気になさらず、そのままに。いつものことですから」


 すぐに華月の怒声に近い、強い声が響く。

 その華月に合わせたのか、中嗣の声も一段と大きくなり、利雪らにも会話の内容が分かるようになった。


「邪魔しないでよ!また紙が無駄になったじゃないの!!」

「迎えに行かないと、君は下りて来ないだろう」

「知らないよ!来なくていいし、途中で話し掛けないで!」

「話し掛けないと、君はいつまでも終わりにしないから」

「終わるまで待っていてよ!」

「どうにも君のことになると、おとなしく待っていられなくてね」


 度重なる華月の怒りの声と、中嗣のそれを宥める声は、やがて利雪らの元に近付いて来た。


「玉翠、もう中嗣を二階に上げないで。紙が勿体ないよ」

「中嗣様は、止める(いとま)も与えてくださらないんですよ」


 そんなやり取りの後で、ようやく店に利雪と宗葉が居ることに気が付いたようで。

 華月は途端に改まり、表情を作って、わざとらしいほど丁寧に頭を下げた。


「これは、利雪様、宗葉様。お久しゅう御座います」


 さほど久しくもなかったが。中嗣の手前というよりは、玉翠への配慮なのだろう。


「たまには私にも、そのように大切に接してくれてないか?」


 おそらく利雪らがいなければ、ここでもひと騒動起きていたのではないか。華月は酷く怪訝な顔で中嗣を睨み付けている。


「まぁ、いいよ。せっかくだから、皆で茶を飲むとしよう」


 中嗣が提案しても、華月は席に着くことを拒んだ。仕事があるからと言って、嫌そうに眉を歪めている。

 中嗣が宥めるような言葉を三度重ねた後に、彼女はうんざりした様子で彼を見て言った。


「中嗣…様くらいかと思っておりましたが、文官様というのは、かくもお暇が御座いますのでしょうか?」


 様と言ったときの嫌そうな華月の顔を見て、中嗣は嬉しそうに笑う。何がそれほど嬉しいのだろう。

 そしてその笑顔に、利雪らは驚くのだ。


「つれないなぁ。せっかく良いものを持って来たのに、いいのかな?」


 中嗣が胸元から袋を取り出しただけで、華月の目はきらきらと輝いた。一瞬前とは別人の顔である。


「もしかして!」

「あぁ、約束の品が手に入ってね」

「それだけ置いて帰って?」

「君の態度次第かな?」

「約束したのに!」


 それから中嗣は、袋を高く持ち上げて、手を伸ばす華月を弄ぶ。小さな彼女がいくら手を伸ばしても、背の高い中嗣の掲げる袋にはとても届かない。


 しばらくして背伸びした華月が前のめりに倒れそうになった。もちろん倒れることはなかったが。

 中嗣はこれを腕で支え、嬉しそうに笑っていた。初めからこうするつもりで、しばし華月と遊んでいたのではないか。


「ほら、あげるから。お茶くらい一緒に飲もう」


 話を聞く気はないようで、華月は急ぎ袋の中を覗き込み、とても嬉しそうに微笑んだ。


「では、皆さま。仕事がありますので、失礼いたします」


 幸せな笑顔と共に颯爽と二階に戻ろうとする華月の長衣の襟首を、中嗣が慌てて引っ張る。華月がまた後ろに倒れそうになったところを、中嗣は空いた手で背中を支え、受け止めた。

 華月の細い体は、中嗣を前にするととても軽そうだ。


「貰うものだけ貰って、それはないだろう」

「まだ用が?」

「私は元より、彼らも君に会いに来たのではないか?お茶くらい付き合いなさい」

「中嗣が帰ったら、そうするよ」


 すっかり気が緩んで敬称も消えているが、二人とも構わず話を進めている。


「君の好きな煎餅も買ってきたよ」

「それは有難い。後で頂くね」

「そんなに私が嫌か?忙しい合間を縫って、ようやく会いに来られたというのに。そのためにどれだけ仕事を頑張ったか。君なら分かっていよう」


 あからさまに落ち込んだ顔を見せられて、華月は口を尖らせてみせたが、それから何も言わず、渋々と席に着いた。しかし袋は大事に抱えたままだ。

 胡蝶に見せる態度といい、華月は頑固に見えて、案外と押しに弱いのかもしれないと、利雪は思う。


「それで、今日は珍しい御三方様で、一体何のご入り用でしょうか?」

「いえ、私たちも偶然中嗣様とお会いしまして。驚いたところです」

「では、利雪様、宗葉様のお二人とお話しましょう。中嗣……様、邪魔です。お帰りください」


 無残な扱いをされても、中嗣の顔は今も緩んでいる。名を呼ばれるだけで嬉しそうなのだから。


 こういう男だったのかと、よもや得体の知れない者を見るような目で、利雪と宗葉は中嗣を眺めた。

 宮中での彼は、もっと理知的で、賢く。飄々としているところはあったが、隙を見せることもない。いつも颯爽としていて、どの者にも丁寧に接する人だから、悪い評判をあまり聞いたことがないものの、それがかえって不気味さを与えているところもあって、官の一部からは恐れられていた。仕事には厳しいことも知られていたから、なおさらだ。

 ちなみに宗葉は、中嗣が女官からの人気の高いことを知っているが、どの女官とも浮名を流したことがないことも知っている。だからこそ妻の座を狙う女官が多いようで、文官の宗葉に中嗣様とご一緒出来ないかと相談する声はよく掛かった。そのためにも宗葉は中嗣とお近づきになりたいと常々思っていたが、残念ながらその機会には恵まれなかったのである。三位の文官だから中嗣は利雪らの上司に当たるが、普段の仕事において直接関わっては来なかった。


 そういうわけで、今の中嗣の様子が若い文官たちには信じられない。


「中嗣様も、こちらに写本を頼んでいらっしゃるのですか?」

「ずっと以前からね。ね、華月?」


 華月は上の空で、袋の中を覗き込んで、うっとりと微笑を浮かべていた。

 そんな華月に向かって中嗣は苦笑を浮かべるのだが、それは何故か甘さを帯びていて、このような愛おしさが込められた苦笑を、利雪はこれまで見たことがない。


 華月が中嗣にとっての大切な人であろうことは、男女の話に疎い利雪にも分かるほどに、中嗣の全身から想いとなって溢れている。


「君らも写本を頼みに?」

「いえ、書の話でもと思ったのですが。今日は立て込んでいらっしゃるようなので、また日を改めようかと思います」


 中嗣が誰と通じているかも分からないのに、詳しい話など出来るはずもない。

 それに玉翠もいるから、どのみち利雪らは、華月を外に連れ出すつもりであった。今日はどうも、それが上手くいきそうにない。


 しかし時間はもう残されていないだろう。

 やはり華月殿に頼ることがおかしいのだ。

 必ずお守りすると誓ったのだから、我らでそうすべきで……。

 利雪が苦悶する横で、宗葉も己の軽薄な考えを恥じていた。


 だが自分たちだけで何が出来るというのだ?


 中嗣の顔付きが、ほんのわずかに変わった。微々たるものだったけれど、おそらく社交性に富んだ宗葉の方が先に気が付いていたのではないか。


「利雪、宗葉」


 中嗣は若い者を諭すように語り掛ける。


「私には隠す必要がないよ。上から聞いている」


 何を?いや、そもそも本当か?

 もしも彼が、毒殺を謀った者と通じていたら?

 それに上とは誰だ?

 中嗣の上にある者と言えば、文大臣の羅賢、文次官の覚栄、さらにはその上位に皇帝がある。

 武官とて、大臣や次官はやはり中嗣の上にある者と言えるのではないか。

 はたして彼は誰に何を聞いたのか。たとえば華月を問題視している上位の医官からの提言であったなら?

 いや、待て、そうだとしても。中嗣が華月を好んでいるとすれば、守りに来たということだ。そうするとすべてを知っていることになるが。

 しかし三位の文官である。そうは見えないものの、演技、ということも十分にあり得るわけで……。


 二人のぐるぐると巡る思考を止めたのは、華月だった。


「利雪様。宗葉様。少なくとも、中嗣様は、此度の件に関わっておりませんので、ご心配には及びません」


 この発言で、さらに利雪らは思考を巡らせることになった。


 何故か華月が、中嗣の立場を保証した。

 すると華月は、中嗣と繋がっていたことになる。

 無能な医官らの進言さえ、真実味を帯びてしまうのではないか?


「玉翠にも気を遣うことはありませんが、どうしても気になるならば、外させましょう。どうぞこの場でご用件をお話しくださいませ」


 華月のそれは、中嗣に聞かせなさい、と言っているようで、不自然だ。

 利雪と宗葉が本当の意味で()()()()()()を疑ったのは、このときである。


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