29.一度逸れねば進めないのか
窓を閉めると、中嗣は元居た場所に座って、躊躇いなく華月を持ち上げ膝に乗せた。
「すまない。今日の件は、こういうことだ」
「あの人は何者なの?」
「武官としか言えないな」
「それは知っているけれど。中嗣とはどういう関係なの?」
「かつて私も武官をしていた頃があっただろう。その頃は、特に上下もなく、共に街の見廻りをする仲だった」
「え?上下もなく?」
磁白のそれは、とても上下関係がないようには見えない態度である。磁白は初めから、華月に対しても謙った丁寧な態度を取っていた。それは中嗣の大事な人だと思っているから、と華月は理解している。そうでなければ、官の男から敬われる理由がない。
「磁白は官位試験に向かない質の男でね。周りの者はすぐに上位になるものと見なし、相手が同期だろうと、後輩だろうと、いつも変わらずにあの態度を貫いているのだよ」
「そうだったの。もしかして庶民にもそうなのかな?」
「間違えることを懸念して、分別を付けぬようにしていると、かつて聞いたことはあるね」
「街の見廻り中も変わらなかった?」
「あぁ。彼との仕事は楽で良かったよ」
華月は眉を下げて、武官であった頃の知らない中嗣を憂いた。
武官には血の気の多い者が多く、あえて庶民と揉め事を起こすような男たちがいることは、この街の者たちには常識である。
たとえば、少し前に伝が武官らと揉めていたように。
「少しは座学をしてくれるといいのだがね。武官としての腕はあるから勿体ないのだよ。そういう想いで、邑昌殿も秘密裡に重用していたのかもしれないね」
元より、隠密的な活動をする者たちは、官位を求めない。
それは当然、宮中で目立っても仕方がないからである。官位を上げると、自ずと顔と名が知られてしまうから、あえて避けるのだ。
磁白はもしかするとそれではないか……と始まった思考を華月はすぐに打ち切った。
偽名の件も中嗣には知らせていないようだったから、いくら気になってもここで問うわけにはいかないと気付いたのだ。つまりは今ここで考えるべきことではない。
それで華月は、別の疑問を呈することにした。
「武官の試験は、武術だけではなかったんだね。強い人ほど出世するのかと思っていたよ」
「当然、武術の試験もあるよ。試験というか、理由を付けた扱き、いや虐め、あるいは鬱憤晴らし……まぁ、それは置いておいて。座学嫌いの武官は多いから、ある官位までは、文官よりはずっと優しい試験が出されているね。だがそれでも、通らない者が多いのだよ」
気になる言葉はあったが、華月も宮中の内情などは知りたくなく、流すことにする。
世には知らない方がいいことは沢山あるのだ。
「簡単な試験なら、少しの勉強で済むのではないの?」
「それすら嫌なのだろう。あるいは、出世を望まぬか」
「出世したくない人もいるの?」
「これが武官には多くいるのだよ。高位になると、武官でも書類仕事が増えようが、これが何よりも嫌だと言ってね。されど、高位にならねば、指令官や指導者などにはとても出来ないから困ったものなのだよ」
座学嫌いなら、書類仕事も大嫌いだろうと、華月も納得した。
書が大好きな華月にとっては何の苦もないことも、それを苦手とする者たちが世には多くいることを、華月も狭い世界にいたときから学んでいる。
「武官の試験内容を変えようなんて話にはならなかったの?」
「たびたびその論争は生じているよ。これは武官よりも、神官からの要請が強くてね。神に仕えるためには、官位を測る賢さなど必要ないと主張するのだよ。だがねぇ」
「神官も他官と同じような試験内容なの?」
「一般常識的な試験は共通するが、それは官として最低限必要なもので、難しいものではないのだよ。あとは神事や聖典に関わるものが多く、神官には必要な知識であって然るべきで、一体何が不満なのだか」
「それは不思議だね。どこを変えたいって言うの?」
「試験そのものを廃し、より多く祈祷をした者を出世させろと、喚く者があるのだよ」
「考え方が武官よりも武官らしいね」
「あぁ。鍛錬が好きな武官も似たようなことを言うが。祈るだけで官位が上がるとなったら、誰も彼も神官になりたがろう。それも……」
「賢くない人ほど!」
「そうなのだよ。まったく、神官の上の者たちは何を考えているのだか。これがまた、年に一度の恒例行事のように、毎年上がってくる意見だとすると、呆れたくもなるだろう」
華月は愉快そうに頷くと、「それでも変えないのね?」と問い掛けた。
中嗣からふっと笑うような息が漏れ、華月の首筋を擽り、これで華月も笑ってしまう。
「さて。私のあずかり知らぬところだ。私の元には意見が届かくなったからね」
「え?出世したから下の人の仕事になったの?」
「いいや。あまりに煩いから、私が変えると言い、新たな官位試験を仕上げたことがあってね。それが、どの官からも非難轟轟だったのだよ。おかげでお蔵入りとなってしまった」
「えぇ?何があったの?」
中嗣は肩を竦めてから、華月のお腹へと回した腕を組みなおす。
「難し過ぎだと言われたね。私はそうは思わないし、それぞれの官に必要な事項を詰め込んだつもりなのだが。羅賢殿にも苦笑されてしまったから、難易度が高過ぎたのだろうね」
「中嗣が作った試験なら、きっと完璧だと思うけどなぁ」
「求め過ぎだと言われたよ。一度は部下を得て学べと叱られたものだけれど。今になって、その意味が分かってきたところだ」
見えないところで、華月はまた眉を下げたが、中嗣には伝わっているのだろう。
励ますように、華月の腹を擦るようなことをする。
「私は部下を得られて良かったと思っているよ。君と羅賢殿に感謝する」
「でも、部下を持ちたくなかったんだよね?」
「自信がなかっただけだ。半端な立場で部下を持っても、守り切れる気がしなかったからね。それも下手をすれば、こちらが飲み込まれるわけだ」
「今は平気?」
「私をどうにかしようとする悪意も何もない彼らを得られたことは幸運だと思っているよ。まだまだ不安はあるが、彼らはなかなか家柄も良いし、手を出す者が限られる点では良かったね。四方八方に目を配るというのは、さすがに私にも厳しいものがある。このように……」
中嗣は小さく笑うと、「私がここにあってはね」と言うのだった。
「もっと宮中に居なくて平気なの?」
「なに。羅生がいるさ」
「羅生は大丈夫なの?」
「彼に関しては、心配していないよ。家なくとも逞しい男だし、自衛も十分に出来る。たまに目に余ることをするが、それはどうにかしていくとして。ここに磁白が追加されれば、そう困ることは起きないだろうね」
「あの人も中嗣の部下になるの?」
「一度は断ったのだが、先の様子では放ってもおけないだろう。これも謀られた気がするよ」
「また羅賢なの?」
「さて。謀の好きな官は数多いるからね。いずれにせよ、磁白も害ある男ではないし、自衛という面では何の心配も要らないからいいが。彼には少々の教育が必要となる。これをどうするかだが……」
ここで華月が迷うことはなかった。磁白はおそらく、偽名の件を自ら中嗣に語る時が来るだろう。と思えば、横から伝えるようなことは憚れる。
磁白が何故それを華月に伝えたのかは、謎であるが。
華月にはその件に関わる気もなかった。
華月は眉を戻し、ふんふんと頭を揺らしたあとに、「中嗣は優し過ぎるからね」と呟く。
すると中嗣からまた軽く息が漏れ、その息が華月の首筋に届くのだった。