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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第六章 したうもの
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25.形勢逆転に見えますが


「近頃調子に乗って、君を困らせてしまっていたね。申し訳なかった」


 背中に回した手で押さえるように華月を胸に抱きながら、中嗣は声を絞り出した。

 その声色の物悲しさには、華月の声まで揺れてしまう。


「きゅ、急にどうしたの?」

「玉翠に叱られてしまったのだよ。自分で気が付けないとは……情けない私を殴ってくれないか?」

「はい?」


 玉翠が早速動いてくれたと知り、ほっとするのも束の間、玉翠の説教が華月の期待した以上の、いや、特異な効果を与えたようだと気付き、華月は慌てて中嗣の体を押したが、体の距離は開かないし、中嗣の腕の力も弱まらない。

 出来ることは、声を荒げるだけだ。


「今度は急に何を言い出すの?」

「駄目なのだよ、私はもう」

「何が駄目だと言うの?訳が分からないよ。ちゃんと説明して?」

「一度あのようにしてしまえば、これまで抑えていた想いが止まらないのだよ。これから私が君を困らせたときには、どうか私を殴って止めて欲しい。君にならいくら殴られても本望だからね」

「おかしいことを言っているよ?落ち着いて。ねぇ、落ち着いて?」


 様子の不審な中嗣に、華月の声にも焦りの色が滲んでいる。

 何より、中嗣が一向に腕の力を緩めてくれないから、華月は身動きが取れない状態でおかしな男と対峙していることが恐ろしくなっていた。

 本当の意味での恐怖ではないが、もう少し距離を取っておきたいと願っている。


「いくら殴ってもいいから、どうか急いて私を拒絶することはしないでおくれ。今さらにそれは耐えられない」

「先からおかしいよ?落ち着こう?」

「すぐに妻になれとは言わないから。君の心が受け入れられるときまで、私はいつまでも待つと約束しよう。そのまま老いてしまっても構わない。だからどうか、この家から追い出すだとか、会うのを辞めるだとか、そういうことは言わないでくれ」


 玉翠から受け継いだのか、華月からそれは長い溜息が漏れていた。


「まだ何の話もしていないでしょう?どうして一人で結論を出すの?」

「君に一人で結論を導くよう急いてしまったようだからね。そんなつもりではなかったのだよ。頼むからしばしの猶予を」

「だから、私が結論を出したと決めつけないで」

「再考の余地はあるか?」

「再考の余地もなにも。ちゃんと話せていないでしょう?」

「すまない」

「分かってくれたなら、一度離して?落ち着いて話したいよ」

「逃げないか?」

「逃げないってば。もう今日は出掛けたくないの」


 中嗣が勢い、がばっと体を離したので、華月はびくりと体を揺らすことになった。

 とはいえ、勢いはあっても中嗣が華月に対して粗雑な扱いをするわけがなく、華月の両肩にそっと手を置くと、中嗣はまじまじと華月の顔を確認するのだった。その中嗣の顔のなんと情けないことか。


「疲れているときに、一方的に話してすまない」

「結構歩いたから、それなりにはね。でも平気だよ」

「それはいけない。横になるといい。二階がいいなら運ぶよ?」

「寝るほどではないよ。ゆっくり話そう」

「本当に平気か?」

「平気だってば。んもう、そんな顔はしないで。元気だから」


 そこでトントンと戸を叩く音がして、盆を抱えた玉翠が入ってきた。

 廊下で機を窺っていたのではないか。

 すぐに二人に茶が振る舞われ、座卓にはみたらし団子がたっぷり乗った皿も置かれた。

 しかし湯呑みも団子用の小皿や匙も二人分だ。


「玉翠は食べないの?」

「えぇ。部屋にいますから、ごゆっくりどうぞ。中嗣様、くれぐれもよろしくお願いしますよ」

「分かっているよ。すまないね」


 中嗣がなお情けない顔で神妙に頷いているのがおかしくて、華月は小さく笑ってしまう。

 それを見た玉翠に微笑まれると、頑張れと言われたように感じた華月は力強く頷いた。すぐに部屋を出た玉翠も小さな頷きを返してから、戸を閉める。


「これは玉翠が作ったものか?」

「そうなの。朝から沢山食べちゃってね。玉翠の作ったみたらし団子が世で一番美味しかったんだ」

「醤油はどうだ?」

「味は少し違う気がするけれど、専用でない醤油でも美味しいんだよ。玉翠って凄いよねぇ」


 自分のことのように得意気な華月の語り方に、中嗣は小さく微笑んだ。やっと笑えたというところだ。

 この様子だと、今宵は夕餉なしとなるだろう。玉翠が軽く食べられる料理を用意してくれていると悟り、中嗣も腹具合を気にせずに団子を味わうことにする。


「早速聞いてもいい?」


 団子を三つも腹に入れてから、華月が問うた。

 この静かな食事の間は、中嗣の心も落ち着かせている。


「何でも聞くといいよ」


 中嗣もまた、団子をひとつ口に入れて、次の言葉までに飲み込もうと試みる。

 このようにして、会話はゆったりと進むであろうと思われたのだが。


「いつからなの?」

「ん?」

「この間から考えていたのだけれど。いつから私をそんな風に見ていたの?」


 飲み込もうとした団子の欠片が喉に詰まりそうになって、中嗣は咽せた。

 華月が焦って茶の入った湯呑みを渡し、中嗣の背中を撫でる。

 この男は、この期に及んで何をしているのか。


「大丈夫?」

「あぁ。すまない」

「また急にどうしたの?おかしなことは聞いていないよね?」

「君まで悪い方に捉えているのではないかと焦ってね」

「悪い方って?」

「誓って言うが、私は幼い君をどうこうしようと想ったことはないからね」

「はぁ?」

「確かにどこかに家でも借りて、屋敷の奥に閉じ込めておきたいとは願ったが。それは幼い君がまた誰かに奪われるようなことのなきように、可愛い君が何者かに襲われることもなきようにと、守りたい一心でそう願っていただけで……」

「え?閉じ込めたかったと言った?」

「それもまた悪い方に捉えないでくれ。本当に、その頃の君に対して恋慕の情があったとは言わないから」


 恋慕の情と聞いた途端、華月の頬が染まっていく。

 この顔を見てしまえば、直前まで固く結ばれた中嗣の決心はたちまち揺らいでしまうのだった。

 華月の熟れた頬を撫でながら、中嗣ははっと我に返り、急いで手を引いた。


「すまない」

「今度は何事?何に謝ったの?」


 紅くなりながら華月が首を傾げれば、なお中嗣は強い衝動に耐えなければならない。

 男の事情を遊女たちが詳しく教えなかったことは有難いが、さて、それに自然気付くときまで待てと言われれば、この男は従うだろうが、酷なことには違いない。

 中嗣はぎゅっと拳を握り締めて、あらゆる衝動に耐えることにした。


「君が嫌なように触れてしまっただろう?申し訳なかった」

「今のは別に嫌ではなかったよ」


 中嗣の目が見開かれ、それから息が吐かれる。

 顔を染めてもなお、許されることがあると知って喜ぶも、中嗣は混乱していた。これではここまでは良いという自主的な線引きが困難である。


「君は何が嫌だろうか」

「え?」

「それをしないために、教えてくれないか」

「そ、それは……何が……何がと言われても」


 華月の戸惑う姿に、今度の中嗣は息を呑んだ。

 強い拒絶の言葉を覚悟していたのに、また期待してしまうではないか。

 どこまでが許されるか試したい衝動と戦って、中嗣は作った拳にさらに力を注がなければならない。




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