23.父親の教え
「懐かしく手でも繋いでみますか?」
玉翠がそう言ったのは、小石も何もない平らな土の上で転げそうになって、腕で支えられたあとだ。
結局妓楼屋には行かず、日を改めて行く約束をほんの少し前にしたばかりである。
新年の祝日もとうに明けた桜通りは、いつも通りの活気を取り戻していた。賑わい方は、祝日の南大通りとは比べられないほどに落ち着いているけれど、これでも桜通りにしてはよく人が流れている方なのだ。
「今は少しよろけただけで、どこも痛くないよ?それにもう子どもではないし」
「私が懐かしい気分になりたかったのですが。いけませんか?」
「いけないことはないけれど。もしかして酔っているの?」
改めて思い出せば、つい先ほどまでの時間が信じられない。
本当に一杯だけの付き合いだったけれど、なんだかとても長い時間に感じられた。
頼は元々よく話す人ではないし、玉翠も同じようなものなので、私と頼がよく行く囲炉裏のある茶屋に入ったはいいけれど、なんだか体がむず痒くなるような妙な時間を過ごすことになった。
玉翠は私の好きな麦飯の焼きおにぎりを気に入ったようで、おにぎりに塗られた合わせ味噌の材料を探りながら味わい、家でも作ってみようと言ってくれたし、いつもは釣った魚を焼いて貰うのだと説明すれば、今度釣った魚を持ち帰ってこないかと提案されるなど、何かしら話をしてくれたのだけれど。
こんな話は長く続かず、しばし沈黙したあとで、玉翠は頼から私の昔話を聞き出そうと試みた。
場が静まる原因はいつも頼にあったように思う。
どうも記憶が怪しいのか、「私は釣りばかりしていたので良き話が思い付きません」と言い始め、腕を組んでは深刻に考え込んだ。
そこまで求めていないからと考えを中断させようとするも、頼は頷きながら、なお考え続けていたのだろう。
そうやって考え込む頼があまり話し掛けて欲しくないように見えたので、私は玉翠と話すことに決めて、またこの茶屋の料理の話をしていたら、頼が急に思い立ったように「そういえば川に落ちたことがあった」と呟くのだ。
玉翠が反応しないわけはないが、頼の落ち着いてのんびりした声と言葉の不一致にしばらく戸惑っていたように思う。それから玉翠がもっと詳しく聞かせて欲しいと願えば、また頼は考え込んでしまうのだった。
頼ってこんな人だったっけ?
そうして長い沈黙のあとにやっと出てきた話に、私は赤面することになる。
頼が言うには、川には大きな魚が沢山いるのだと知った私は、水面を真剣に眺めていたそうで、そのまま頭から川にドボンと落ちたらしい。子どもは頭が重いと言うが、自分のこととなると恥ずかしいものである。
その後は頼が私を引き上げてくれて怪我もなく安心したが、しばらくは私が泣いてどうにもならず。川は怖くないと教えるまでは頼も大変苦労したとか。
まったく覚えていない頃のことで、私からすれば懐かしさも何もない。
そんな感じで、基本的には私と玉翠が家にいるのと変わらないように話し、時折突然に思い付く頼の昔話に話題を取られ、それを玉翠がじっくり時間を掛けて聞き出していく、という風変わりな時間を過ごしてきたので、私も大変に疲れたのだ。
頼にまで恥ずかしい話を披露されるとは思わなかったからね。
岳や伝ならともかく。それで構えも足りなかった。
「酔いはしませんが、幼いあなたを知っている人に会って、対抗したくなったのかもしれませんねぇ」
「えぇ?対抗?」
「昔はよく手を繋いで歩いたでしょう。酔いのせいにして、どうですか?」
差し出された手をそっと握ってみた。
懐かしさに胸が詰まる。いつから、この手を取らなくなったのだろう。
「父親の寂しさを思い知った日のことを思い出しますね」
「いつのこと?」
「あなたが恥ずかしがって、手を繋がなくなったときですよ」
「そんなことがあったっけ?」
「えぇ。もう子どもではないから、一人で歩けると言って。それもまた成長を感じられて、感慨深いものではありましたけれどねぇ」
なんだか落ち着かないな。体を動かしたくなったときのような、そわそわとした衝動を感じる。
「今度、先生にも会わせていただけませんか?」
今日は先生の話にもなった。
買い取られた後、一人で出掛ける許可をどう得たかは覚えていないけれど、そのうち私は昼間に限り一人で街を歩くようになって、先生のところにも顔を出すようになった。それで頼とまた会うようになったのだ。
それがどうして夜も出歩くようになったのかは、忘れたけれど。うん、今も玉翠はそれについてよく思っていないことは知っているよ。玉翠は優しいから、ため息だけをぶつけてくれていたのだと思う。それなのに私は言いたいことを伝えてくれない玉翠に失礼にも不満を覚えていた。
でも、それは私も同じで。玉翠の目を盗んで部屋から抜け出すようなことをしてきたからね。余計に長く説教されることになるのだけれど、説教と言っても、思い返せば玉翠の言葉はいつも優しくて、ため息の方が多かった。
それももう聞かせて貰えないのかもしれない。これからは、何をするにもちゃんと話をしようと決めたから。
あのため息が本当に懐かしいものになってしまうのは残念だから、たまにはため息を吐いて貰おうかな。こんなことをお願いしたら、玉翠を困らせてしまうだろうか。
また思考が飛んで、玉翠の問いに答えるのが遅くなった。過ぎる考えは、私の悪癖だ。
先もいつから頼と会っていたのかと聞かれたとき、正直に私たちは会う約束をして会い始めたわけではないと説明したのだ。今も会うときに、特別な約束をしないことも伝えている。
それから先生の話になって、玉翠は先生にもお礼を伝えたくなったのだろう。
有難いし、嬉しいことだけれど。
「先生も玉翠を連れて行ったら喜んでくれると思うよ」
先生は頼と違って、誰が来ても拒絶することはないだろう。
すでに中嗣と羅生を連れて行ってしまったが、あの通り笑っていたのだから。
けれども、本当にいいのかと疑問に思う私もいる。
かつての私を知る人たちと、玉翠を繋げていいのだろうか。
願わずに昔からの繋がりが戻り、それが新しい人たちとも繋がっていくと、私はいつまでもあの頃の私でしかないのだと、世から知らしめられているような気がしてくる。
街の風は、あの北の河原よりも柔らかいが、これはこれで冷たかった。
帰ったら、玉翠が淹れてくれるいつもの温かいお茶を飲みながら、ゆっくりしたい。
「ねぇ、玉翠」
淡い瞳がこちらを向く。
「私が中嗣の気持ちに応えられなかったら、玉翠は困ることになる?」
玉翠が足を止めたので、私も立ち止まった。顔が強張っていたから、叱られるかと思って覚悟していたのに、玉翠はすぐに優しく微笑んでくれて、それがどうしようもなく懐かしい気持ちを誘う。
世を知らなかったあの頃、玉翠の優しい笑みは私を沢山の不安から救い出してくれるものだった。
「それは周りのことを考えて決めることではありませんよ」
「でも、玉翠が困ることになるなら……」
「私には何もありません。あの方はそのようなことをしないでしょう。何よりも自分の気持ちを大事にすることです」
素直に頷けない私に、玉翠はさらに言ったんだ。
「華月。誰かのために選ぶことは、誰かのせいにして選ぶことと同じですよ」