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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第六章 したうもの
135/221

17.それぞれに大変だった模様です


 子どものように泣く華月の言葉を、中嗣はすべて真摯に受け止め、自分の想いを返していった。

 華月から溢れ出るどの言葉も、熱で魘されて出た戯言だとは思えなかったからである。


「妻になんてなれないよ」

「私が望み、君が望んで、どうしてなれない?」

「うぅ……私は育ちが悪いから」


 どうにも顔がにやけてしまい、中嗣は賢明に真面目な顔を作ることになった。

 そうしないと、子ども扱いし真面に取り合っていない状態だと思われかねない。


 されども、中嗣の言葉に対する否定がないことは嬉しく、余程気を引き締めておかなければ、中嗣は笑みを零してしまうのだった。


「君の育ちは何も悪くないよ」

「中嗣がそう言っても、世では悪いことになるの。だから私を妻になんて言わないで」

「君はあの兄妹を見て、どう思った?」


 たまに華月の涙がぴたと止まることがある。このときもそうだった。


「今日の二人のこと?」

「あぁ。彼らなど、育ちだけを見れば最上位にあろうが、君には彼らが世で言うところの素晴らしい人間に思えたかな?」

「まったく思わない」

「そうだろうとも。だから育ちなど関係ないよ。私は今の君がいいのだからね」


 酷い言い草であるが、邑家の兄妹のことなどは、心底どうでも良かった二人である。

 元はと言えば、あの二人のせいでこうなっているわけだが、最早あの兄妹の存在価値はここにない。


 そしてまた、華月は泣き始める。


「それでも、官の妻なんて私には無理だよ」

「君が望むなら官を辞めてもいいと思っているよ」

「そんなのいや」

「分かっているよ。辞めはしないが、此度のように君に迷惑が掛からぬようにするからね。あぁ、それから。君には官の妻らしいことなど望んでいないよ。いつまでもそのままの君でいて欲しい」

「私だけ変わらないなんていや」

「では、共に良きように変わっていくとしよう」


 この調子であったが、いつまでも二人で語り合っている場合ではなく。

 なんとか、なんとか、中嗣は華月を宥め、階下から羅生を呼ぶことに成功した。


 さて、現れた羅生だが、気を遣い客間で玉翠と過ごしていたこともあって、二階の惨状には心底うんざりした顔でこう言ったのである。


「これは知恵熱ですぞ」


 中嗣はこれに驚かなかった。そんな予感はしていたのだろう。


「では熱を下げてくれ」

「そう言われましてもな。これは病というものではありませんし」

「薬は使えるだろう?」

「熱を下げることは出来ますがねぇ。どこも痛まぬのであれば、しばらく放っておきたいところですぞ」

「何を言う。このままでは華月が辛いだろう。今すぐ楽にしてやってくれ」

「うぅ……ごめんなさい」


 と、何故かここで泣き始める華月には、羅生も少々動揺した。


「熱なんか出してごめんなさい」

「泣くことはない。君の意志で出るものではないのだから」

「でも知恵熱なんて恥ずかしいよ」

「羅生、本当に知恵熱なのか?知恵熱だとしても、目の前で熱がある者を君は見捨てる気だと?それでも医官だと言えるのか?」


 言い掛かりとしか思えぬ中嗣の言葉に、泣きたいのは羅生の方であるが、やはり華月が泣き出した。


「ごめんなさい。すぐに下げるから、羅生に怒らないで」

「あぁ、君はそのままでいいからね。羅生、せめて楽になる薬を出してくれ」

「分かりましたから、落ち着いてくだされ。華月も落ち着けよ」

「うぅ……いつもただで診て貰ってごめんなさい」

「俺はただでは診ていないぞ。ここに羽振りの良い官がいるだろう。何も心配するな」

「そうだとも。いつも君の分の礼は十分過ぎるほどにしているからね。君は何も心配しなくていい」

「私のことなのに。中嗣にも羅生にも何も返せないの」

「そんなことはない。君がいるだけで、私は沢山のものを貰っているよ」

「俺はその珍しい傷が見られたら、それでいいが」

「いやぁ。見せたくないの」

「羅生、余計なことを言うな」


 この調子だったので、羅生からもいつもの傲慢な態度が失われてしまった。

 羅生は気にするなと散々伝えたが、華月がどうにもならないので、よく眠れる薬を処方することになる。

 それで華月が落ち着いたかと思えば、目が覚めては泣き、泣き疲れては寝て、また起きては泣いての繰り返しで、写本屋に集う男たちを長く困らせたのだった。


「羅賢のこともごめんなさい。何も出来なくてごめんなさい」


 こう言って泣かれたときだけは、祖父を少々疎んだ羅生だが。

 羅生も今回ばかりは、華月を強い娘として扱えず、熱心に慰めることになった。



 さて、ほとんどのとき、中嗣が華月の看病をしていたかと言えば、そうではない。

 宮中には新年の儀というものがあって、文次官となった中嗣はもちろん、羅生でさえ、これは欠席出来る行事ではなかった。

 街の見廻り役をしている一部の武官などが出席を免除されているものの、宮中にある官はある意味強制参加の儀式である。参列すれば今年も皇帝に忠誠を誓う意思を示すことになり、つまるところ参加しなければ謀反の疑いありと言われかねないので、熱が出ようと、大怪我をしようと、顔を出す官がいるくらいだ。

 

 そして中嗣はこの新年の儀において、今年は主役のようなものであった。

 すべての官に向けて、文次官としての席にあることを見せ付ける時であったのだから。

 全官に権威を示すにうってつけの場を欠席するほど中嗣は愚かではない。


 というわけで、嫌々ながら宮中に出向くこととなり。

 さらに迷惑なことには、邑家の兄妹の対応もあって、年始の休暇を取るためには他の仕事も片付けなければならず、中嗣が写本屋に居続けることは叶わなかった。


 必然的に華月の世話をする役目は玉翠へと移り、これを酷く後悔したのは中嗣である。

 まさかここで父娘の仲を深めてしまうとは。

 しかもこれにより華月の涙は止まり、ようやく熱も引いたのだ。


 その日から華月は玉翠に甘えるようになり、中嗣が華月から予期せず嬉しい言葉を聞く日々は一旦終わりを迎え……そうしてまた河原での一幕へと続いていく。




 ◇◇◇



 もしもすべての時を華月に費やすことが出来たなら。

 玉翠との和解に関しても、己が仲介役となり、今頃はもっと華月に称賛されていて、甘えて頼る相手も代わり……。

 と追想が都合のいい妄想へと変わろうとしていたとき、中嗣を現実に引き戻す声がした。


「そろそろ会議のお時間ですぞ」

「あぁ。仕方ないね」


 大事な御前会議を前に仕方がないとは何だと宗葉は思うが、口には出さず。

 ところが、幼馴染の男は二人の会話に口を挟んだ。


「まだお時間はあるでしょうか?中嗣様にお伺いしたいことが御座います」

「少しならば平気だが」

「今日は写本屋での件などもお話になるのでしょう。そういった件で、今後私がお役に立てるようになることは叶うでしょうか」


 羅生から「ほぅ」という上から目線の偉そうな声が漏れるも、利雪は気にも留めずに美しく微笑んだ。


「早くお役に立ちたいと思うのですが。今の私ではとても足りぬことは分かっております。そこで、こういった件にも対応出来るようになるために、何から始めたら良いかとお尋ねしたく」


 中嗣もこの場所では珍しいことに、素直な微笑を浮かべていた。

 部下の成長を確かに感じ、嬉しかったのだ。何せ初めての部下である。


「焦らないことだね。まずは、ここに届く書類すべてを理解出来るようになるといい。迷惑な……いや、有難いことに、私の元には宮中のあらゆる書類が届くだろう。関幸殿は今後もこの通りであろうから、君たちはこの部屋にいながら、宮中の仕事のすべてを把握出来る環境にある。これからは書類を今より少しでも深く読み解くようにするといい。それから、書類に合わせて宮中の主要な者たちを把握しなさい。どこまでかは言わずとも分かるね?」

「はい。出来る限り早く理解するよう努めてみます。他に何が出来るでしょう?」

「君は書が好きだったね。それはもっと活かすといいよ。知識は君にとって確かな蓄えと武器になる」

「中嗣様がこれまで読まれた書などを教えて頂いても構いませんか?」

「それは構わないが、その中でも君が興味を持つところから読み始めることを薦めるよ。全体と言ったが、ある特定の分野に優れた者もまた、ここでは重宝されるものだ。いきなりすべての役に立とうとしない方が、かえって自分の立ち位置を明確にすることも出来よう。いくつか強みを持ちつつ、全体と戦える知恵を増やしていくといい」

「分かりました。そのように考えます」

「それから、華月に聞きたいところを聞いてくるのも許そう」

「良いのですか?」

「そろそろ話したいこともまとまってきたのだろう?書類の件でも、一度華月のところに君たちを連れて行こうと思っていたよ。今は少々あれだから……時期はこちらで決めさせて貰おうか。さて、では私は行って来るよ。後は頼むね」


 出て行こうとする中嗣を、今度は羅生が引き留めた。


「戻られてからあちらに向かわれるなら、準備をしておきますぞ」


 中嗣はほんのひととき動きを止めて考えた。

 頭に蘇るは、可愛い娘の姿である。


「早く帰りたいところだが。外出を一度に済ませておくという考えもありだね」

「後回しにして先に会われると厄介ですぞ」

「厄介なことはないが。まぁ、そうだな。そうとなれば、会議をいまだかつてないほどに早く終わらせてくるよ」

「邑昌殿が早う解放してくださると良いですな」

「選ぶのはこちらだ」


 中嗣が涼やかな笑顔を張り付けたときには、ようやくか、と何故か宗葉が深い息を吐いていた。

 この大人しい部下に中嗣は何を想うのだろう。




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