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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第六章 したうもの
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16.こちらも追想が止まらない様子です


「ご機嫌ですな、中嗣様」


 紅玉御殿のいつもの部屋に、よくある皮肉な声が戻る。


 宗葉はほっとしていた。珍しく朝から中嗣と羅生が揃い、文次官の執務室と称されるように変わったこの部屋にいるからだ。

 中嗣は相変わらず、文次官用の空いた部屋には移動していないが、もう周りもあれこれ言う気はないのだろう。近頃文大臣関幸も、三位に下りた元文次官の覚栄も、部屋に関しては何も言ってこなくなった。


 宗葉としては、これで今日は、他官から一人責められることもないし、書類の束を前に一人途方に暮れることもなく、さらには中嗣と羅生のそれぞれの言動に一人振り回される心配もないということになる。

 そして今は、利雪も隣で仕事をしていて、心強い。


 宗葉は心休まる気持ちで、目の前に山となった書類から目を逸らし、中嗣と羅生の会話に耳を傾けた。

 実は何も心休まる状況にはないのだが、宗葉がいつもより気が楽になっていることは確かである。


「それほどに腑抜けた顔をされているのですから、いよいよ一人前になったと思ってよろしいので?」

「さてね」


 先から中嗣からは生返事しか返って来ず、羅生はつまらなそうである。


 中嗣の書類を持つ手が止まっていることを、周りの誰もが気付いていた。

 いつもなら、書類は流れるように文机の前から傍らに山となった場所へと移されていくからだ。


 何か良いことがあったのだろうと思えど、中嗣の頭の中には絶えず新しい花が咲いていることまでは、誰も彼も分かっていなかった。


 あの可愛さと言ったら。なんだろうか、あの可愛さは。本当にこの世のものか。昨夜も良かったが、今朝もまた。

 両手で顔を隠して「その目を辞めて」なんて震えた声で言う華月を、「では目が見えぬように」と抱きしめてみれば、ぎゅっと身を固めて「本当にもう辞めて」と泣かれてしまったが。

 泣きながら衣装に掴まって甘える様は、本気で嫌がっているそれではなかった。

 あぁ、なんと可愛い娘なのだろう。今すぐ帰って可愛がりたいものだ。

 くっ。何故、こんな日に会議などが。二度と呼ばれぬようにしてやるか?


 中嗣の頭の中はこの調子である。

 努めて顔を作っているが、もはやいつもの冷やかな笑顔も崩壊し、部下たちには朝からずっと腑抜けた顔を晒している状態にあった。


 花畑にいる状態の中嗣の頭には、またしても河原での華月の様子が浮かんでくる。この幸せな追想はもう何度目か。


 あの河原で向かい合ったあのとき、華月の手が頬に届いた瞬間、内側から何かが途切れるぷつりという音を中嗣は聞いた。その音が、何度も脳裏に今まさに聞いているように蘇るのだ。

 それでもあのときは、手のひらに口づけをするだけに留めるつもりだった中嗣である。


 それがどうだ。夕陽よりも真っ赤に染まった顔をして、潤んだ瞳で見上げられていたら。

 今度は音も立てず、これまで中嗣の想いを堰き止めていた壁のようなものが、がらがらと崩れていった。


 さすがに華月が声も出さずに腰を落としたときには、中嗣も焦ったが。

 おかげでそこで止めることが出来たのだから、あれで華月は身を守ったのかもしれない。

 そうでなかったら、中嗣はどこまで何をしていたか分からなかった。そこが河原であることも、あの一瞬は忘れていたくらいに。


 自制しなければ、と中嗣は常々己に言い聞かせるのだが。

 幸せな思考は一向に止まらず、またその先を思い出しては、顔が緩んでいく。


 茫然として、何も語らなくなった華月を抱え写本屋まで帰宅する道中、中嗣は人目も気にせずに、一人笑みを零し、すれ違う者たちに怪訝な顔をされていた。誰かが騒いだら、娘を攫う変質者として認定されていてもおかしくないが、元から見目も良く、着飾った華月に合わせて身綺麗にしていたこと、さらには夕闇が落ち始めていたことは、救いだった。


 写本屋ではなく、別のどこかに連れ去りたいという衝動に耐えて、中嗣はなんとか写本屋まで歩き切った。

 それからは、今まで耐えた分もというように、華月を可愛がり、困惑させ続けている。



 気持ちを伝えてからここまで、中嗣にとってはあっという間の日々だった。

 その日々が、この数日、何度も何度も脳裏に蘇り、中嗣を幸せな気分で満たすのだが、それは今日、この紅玉御殿の自室に辿り着いてからも変わらなかった。


 これで文次官なのだから。この国は大丈夫か。


 そしてまた、中嗣の追想が始まる。変化のきっかけとなったあの日に戻り、最初から思い出すようだ。




 ◇◇◇



 それは邑家の兄妹を連れて磁白が消えたあとのこと。


 中嗣は華月の言う通りに先に湯を浴び、それも烏の行水で、急いで二階に戻ったのだが。

 華月は布団を頭まで被り寝入っている……という体を取っていた。


 雨だからこそ逃げられなかったのだと、中嗣は天候に感謝して、切ない苦笑を浮かべながら、布団の傍らに腰を落として、華月に語り掛けることにする。

 いつもなら怒りながら濡れた髪を拭いてくれるところで、それがないことを残念に思いながら、こんな日を今日で終わりにしたいとも願った。


「華月。湯をありがとう。今日は本当に申し訳なかったね。あとで改めてお詫びをさせて貰うよ」


 華月は当然ながら、寝ている体なので反応をしない。それでも中嗣は、伝えるべきことを伝えることにする。

 顔を見られないことは残念であったが、顔を見ないからこそ、口に出来たところもあろう。

 基本的に中嗣は華月のことに限って、意気地がない。


「これもあとでもう一度話すつもりだが。君に少しの間も間違った捉え方をして欲しくないから、今も言っておくよ」


 一度大きく息を吸い込んで、中嗣ははっきりとよく通る声で先を伝えた。

 布団を被っていようと、雨音がしていようと、確かに聞こえるように。


「あの兄妹に伝えたことは、偽りなく私の本心だ。あれはあの場を鎮めるために、口から出まかせを言ったわけではないからね。私はずっと――」


 その先は、中嗣が乾いた息を吐いてからになる。


 何故今さらに緊張するのか。からからに乾いた口内がおかしくて、中嗣は場違いにも少し笑ってしまい、それでかえって緊張も解かれた。

 宮中では、どんな局面でもこのように緊張したことのない中嗣にとって、この緊張感は感動を与えるものである。

 そこまで自分がこの娘を好いているのだと、以前より知ることを、その身をもって確認出来た。


 息を整え、中嗣ははっきりとした声でそれを言う。


「私はずっと君を妻にしたいと願ってきたよ。これは先の約束のためではなく、ただ私のために、そうしたいと思ってきたことだ。本当は今すぐにでも結婚したいが、君はどうだろうか?」


 最後に問い掛けて終わるのは狡いだろうと、誰でもなく中嗣自身が思い、やはり意気地がないのだなと己を省みるが。言ってしまったからには、答えを待つことになる。

 しかし華月からは言葉がない。


 あくまで寝ていることになっているのならと、中嗣は布団に手を入れるようにして華月の頭を撫でたのだが。

 すぐに後悔することになった。悠長に構えていた自分自身をだ。


「気付かずにすまない。すぐに羅生を」

「いや」


 そこからだった。華月が延々と泣いたのは。


 中嗣としては、本当に具合が悪く布団に入っているとは思っていなかったので、慌てているが。

 華月は「いや、いや」と言って、子どものように泣き始め、さらに中嗣を困らせた。


「痛いか?それとも苦しいか?すぐに羅生に薬を貰おう」

「痛くないの」

「では苦しいか?」

「苦しくもないの。何ともないのが怖い」


 中嗣は堪らずに、覆いかぶさるようにして布団の上から華月を抱き締めた。


「大丈夫だ。羅生に薬を貰おう。ね?」

「いや、いや」

「分かったよ。嫌なのだね。よしよし。嫌なことはしないから、落ち着いて」

「いや。急に変わらないで」

「あぁ。すまない。驚かせたね」

「もういや。どうしていいか分からないの」

「すべて私が悪いよ。急に気持ちを伝え、君に答えを問うようなことをして悪かった。君は今まで通りでいい」

「そんな風に言わせてしまうのもいやなの。悪いのはいつも私なのに」


 そこからは本当に長かった。

 泣きながら出て来る言葉は他方に飛んで、これまで溜め込んだものを吐き出しているのだと周囲の者たちには分かったが、それと同時に熱がぐんぐんと上がっていくことには、誰をも困惑させた。

 落ち着けと言うほどに、泣いてどうにもならなくなるのだから。玉翠や羅生の苦労は相当なもので、元凶となった中嗣が恨まれたほどである。




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