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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第六章 したうもの
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15.止まらない思考


「今日から下で寝る。仕事も下でする!」


 ここで急に声が出たのは、間違いなく玉翠のおかげだった。

 頭に想い浮かべただけで、安心して、力が湧いてくるのだから。父親は凄い。

 

 途端に体から力が抜けて気付く。そうか、力が入っていて、動かなかったのか。

 ほっとして気が楽になると、大きく息を吸い込むことになって、また気付く。

 呼吸を忘れていたことは、声が出なくなった要因かもしれない。


 いつの間にか固く握りしめていた手を開き、空気を吸い込めば、頭もぐんぐんと冴えていった。

 よしよし。これで中嗣と向き合えるはず。今度こそ、厳しく叱ってあげないと!


 ところが頭を撫でられると、私はまた息を止め、ぎゅっと体を強張らせ、身を固めてしまうのだった。


「好きな場所で過ごすといい。私は君がどこにあろうと、いつも君の側にあるからね」

「はぁ?」


 まだ声は出た。いつもの悪い声に喜ぶ私がいるなんて。

 そう思うが、何より喜んでいる男が側にいては、学んだ礼儀などどうでも良くなっていく。

 せっかく玉翠が、街で普通に暮らせるくらいには、礼儀を教え込んでくれたのに。


 そうだった。玉翠の顔を思い浮かべよう。

 私は熱心に、淡い瞳で笑う玉翠の顔を思い出していた。優しいんだよね、うん。


 そうして一時、目の前にいる中嗣のことを忘れていたら。

 いつの間にか中嗣があの嘘くさい笑顔を作っていて、私はとても嫌な予感を覚えることになった。


「そうだな。二階は広いから、客間の方が共に過ごすには楽しいかもしれないね」

「違う。そうではないの!私は――」

「あぁ、もちろん二階でこれまで通り過ごしてもいいのだよ。その方が二人きりの時間も増えよう」

「だから、それを――」

「傷が痛まないように、私はいつも君の側にあらねばならないからね」

「そんなこと――。あ、そうだよ。今日はその話を――」

「あぁ。それについても、ゆっくり話すが。今宵は早く休んだ方がいいのではないか?慣れぬことに疲れただろう?」

「だから――」


 どうして大事な言葉ほど、出て来なかったのか。


 伝えたい言葉を何一つ言えないどころか、ここで私はまた声が出なくなってしまう。

 こうなると「もう辞めて、お願いだから」と心の中で叫ぶしかない。


「本当に可愛いな。これほど閉じ込めたいと思ったことはなかったね」


 抱えないで。辞めて。膝に乗せないで。いや。お腹に腕を回さないで。降りられなくなるから離して。


「君が玉翠を慕うことはいいが、彼にもこの顔だけは見せないで欲しいね」


 耳元でおかしなことを言われたときには、ぞくっと悪寒がするように体が震えた。


 逃げよう。どこか遠くに。

 そんなことを考えていた私に、「今宵はどこにも行けぬよう、もう一度」と呟く声は恐ろしく。

 私は耳を塞ぐことにした。実際には手を動かせず、すべて聞こえないことにすると決めただけだ。


 けれども、最後のこれは冗談だったようで。

 中嗣が珍しいことに声を漏らして笑い始めた。

 揶揄われたことにむっとしながら、束の間、安堵したのだけれど。


「君にはまだ刺激が強過ぎたね。今日は一度にしておこうか」


 それは有難いけれど。

 うぅん、今日はって何?


 今日だけにしておいて?

 それも違うね。今日のことも忘れて、なかったことにしよう。


「日に一度から始めようか。それならどうだ?」


 おかしなことはもう言わないで。


「すまない。君があまりに可愛くてね。一度箍が外れると危ないな。気を付けるよ」

「……もう辞めて」


 絞り出した声が震えていたことには、恥ずかしくなって俯いた。

 頭が動いたと喜び、両手で顔を隠すことにする。もういやだ。


「あぁ。今はこれだけに」


 首筋に柔らかいものが触れ、途端に体中がカッと熱くなる。


 これは、おかしい!姐さんたちから聞いていた話と違っている!

 こんなときにどうすべきか、教えてくれていたことが何も出来ない!

 姐さんたちはそんなこと言っていなかった。


「その話、詳しく聞かせてくれるかな?」


 え?まさか声が出ていたの?嘘でしょう?

 あれ?でも待って。

 先から私の声が出ずともずっと会話が続いていたのだから。もしやこの人は本当に読心術を極めている?


「君は妓楼屋で何を吹き込まれてきたのかな」


 急に冷えた声を出すのはどうしてなの?

 怖いから、その冷え冷えとした空気を仕舞って。


 とにかく回した腕を解いてくれないかな?

 まずは床に下ろして?

 そうしたら、姐さんらの話なんか、いくらでもしてあげるから。


 あぁ、どうして声が出ないのだろう。

 心を読んでくれるなら、腕を回す力を緩めてよ!



 ◇◇◇


 

 それからどうなったか。

 その夜から私はまた熱を出して寝込むことになり、中嗣に好きに扱われることになった。どこまで恥を上塗りすればいいのか。


 熱で朦朧とする頭でも、私はずっと考えていた。

 けれどもこれは無駄になる。


 それは熱のせいだったのか。

 いくら考えようと、今後の対処法は思い付かず、私の思考はどこまでも止まらなかった。

 何度も、何度も、思い出される恥ずかしいことが、私の熱をさらに上げていく。

 そのくせ、反省点も、今後に活かせる案も、何ひとつ思い浮かんで来ないのだ。


 この人が、おかしいことはよく知っていたことだけれど。

 ここまでおかしな人ではなかった。


 私は何を間違えたのだろう?


 そして私はこれからどうしたらいいの?



 霧の中に迷い込んだように、同じ場所でぐるぐると一人回っているように感じて、誰か助けてと強く思ったとき、不意に大好きな老人の声が聞こえてきた。


『逃げる振りを続けるのはお辞めなされ』


 私は中嗣から逃げていないし、逃げる振りなんかしていない!

 

 反射的に私は心の中で叫んだ。


 ねぇ、会いに来て!

 もういないなんて、嘘だと言って!

 今こそ、いい言葉を与えてよ!

 困ったときは、いつでも助けると言ってくれていたのに!


 声を上げて叫ぶ気力はなく、ただ思い浮かぶ笑顔に向かって、私は心の中で伝えたんだ。

 虚しいだけだと分かっていて。

 

 中嗣の手が額を撫でていた。冷たくて気持ちがいいのは、熱のせいだ。

 目の端から熱いものが零れたのも、気のせいに違いない。拭われてしまっても、それは気のせいなんだ。


 あの人のために、泣くもんか。と思うのに、いつも泣いてしまうのが悔しい。

 羅賢の思い通りになんて、生きないんだからね。

 去ってしまったことを後悔するくらい、こちらの好きに生きてやるんだ。



 羅賢にも負けないように。考えないと。早くいい答えを探さないと。

 今までのように、考えなくてはいいと言っていられない状況だ。


 あぁ、そうだ。

 頼に会わないと。


 ようやく頭の中のおしゃべりが止まったときには、心底ほっとした。

 いつまでも止まらない思考に疲れ果てていたから。


 考えても分からないのだから。今は休もうか。





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