15.止まらない思考
「今日から下で寝る。仕事も下でする!」
ここで急に声が出たのは、間違いなく玉翠のおかげだった。
頭に想い浮かべただけで、安心して、力が湧いてくるのだから。父親は凄い。
途端に体から力が抜けて気付く。そうか、力が入っていて、動かなかったのか。
ほっとして気が楽になると、大きく息を吸い込むことになって、また気付く。
呼吸を忘れていたことは、声が出なくなった要因かもしれない。
いつの間にか固く握りしめていた手を開き、空気を吸い込めば、頭もぐんぐんと冴えていった。
よしよし。これで中嗣と向き合えるはず。今度こそ、厳しく叱ってあげないと!
ところが頭を撫でられると、私はまた息を止め、ぎゅっと体を強張らせ、身を固めてしまうのだった。
「好きな場所で過ごすといい。私は君がどこにあろうと、いつも君の側にあるからね」
「はぁ?」
まだ声は出た。いつもの悪い声に喜ぶ私がいるなんて。
そう思うが、何より喜んでいる男が側にいては、学んだ礼儀などどうでも良くなっていく。
せっかく玉翠が、街で普通に暮らせるくらいには、礼儀を教え込んでくれたのに。
そうだった。玉翠の顔を思い浮かべよう。
私は熱心に、淡い瞳で笑う玉翠の顔を思い出していた。優しいんだよね、うん。
そうして一時、目の前にいる中嗣のことを忘れていたら。
いつの間にか中嗣があの嘘くさい笑顔を作っていて、私はとても嫌な予感を覚えることになった。
「そうだな。二階は広いから、客間の方が共に過ごすには楽しいかもしれないね」
「違う。そうではないの!私は――」
「あぁ、もちろん二階でこれまで通り過ごしてもいいのだよ。その方が二人きりの時間も増えよう」
「だから、それを――」
「傷が痛まないように、私はいつも君の側にあらねばならないからね」
「そんなこと――。あ、そうだよ。今日はその話を――」
「あぁ。それについても、ゆっくり話すが。今宵は早く休んだ方がいいのではないか?慣れぬことに疲れただろう?」
「だから――」
どうして大事な言葉ほど、出て来なかったのか。
伝えたい言葉を何一つ言えないどころか、ここで私はまた声が出なくなってしまう。
こうなると「もう辞めて、お願いだから」と心の中で叫ぶしかない。
「本当に可愛いな。これほど閉じ込めたいと思ったことはなかったね」
抱えないで。辞めて。膝に乗せないで。いや。お腹に腕を回さないで。降りられなくなるから離して。
「君が玉翠を慕うことはいいが、彼にもこの顔だけは見せないで欲しいね」
耳元でおかしなことを言われたときには、ぞくっと悪寒がするように体が震えた。
逃げよう。どこか遠くに。
そんなことを考えていた私に、「今宵はどこにも行けぬよう、もう一度」と呟く声は恐ろしく。
私は耳を塞ぐことにした。実際には手を動かせず、すべて聞こえないことにすると決めただけだ。
けれども、最後のこれは冗談だったようで。
中嗣が珍しいことに声を漏らして笑い始めた。
揶揄われたことにむっとしながら、束の間、安堵したのだけれど。
「君にはまだ刺激が強過ぎたね。今日は一度にしておこうか」
それは有難いけれど。
うぅん、今日はって何?
今日だけにしておいて?
それも違うね。今日のことも忘れて、なかったことにしよう。
「日に一度から始めようか。それならどうだ?」
おかしなことはもう言わないで。
「すまない。君があまりに可愛くてね。一度箍が外れると危ないな。気を付けるよ」
「……もう辞めて」
絞り出した声が震えていたことには、恥ずかしくなって俯いた。
頭が動いたと喜び、両手で顔を隠すことにする。もういやだ。
「あぁ。今はこれだけに」
首筋に柔らかいものが触れ、途端に体中がカッと熱くなる。
これは、おかしい!姐さんたちから聞いていた話と違っている!
こんなときにどうすべきか、教えてくれていたことが何も出来ない!
姐さんたちはそんなこと言っていなかった。
「その話、詳しく聞かせてくれるかな?」
え?まさか声が出ていたの?嘘でしょう?
あれ?でも待って。
先から私の声が出ずともずっと会話が続いていたのだから。もしやこの人は本当に読心術を極めている?
「君は妓楼屋で何を吹き込まれてきたのかな」
急に冷えた声を出すのはどうしてなの?
怖いから、その冷え冷えとした空気を仕舞って。
とにかく回した腕を解いてくれないかな?
まずは床に下ろして?
そうしたら、姐さんらの話なんか、いくらでもしてあげるから。
あぁ、どうして声が出ないのだろう。
心を読んでくれるなら、腕を回す力を緩めてよ!
◇◇◇
それからどうなったか。
その夜から私はまた熱を出して寝込むことになり、中嗣に好きに扱われることになった。どこまで恥を上塗りすればいいのか。
熱で朦朧とする頭でも、私はずっと考えていた。
けれどもこれは無駄になる。
それは熱のせいだったのか。
いくら考えようと、今後の対処法は思い付かず、私の思考はどこまでも止まらなかった。
何度も、何度も、思い出される恥ずかしいことが、私の熱をさらに上げていく。
そのくせ、反省点も、今後に活かせる案も、何ひとつ思い浮かんで来ないのだ。
この人が、おかしいことはよく知っていたことだけれど。
ここまでおかしな人ではなかった。
私は何を間違えたのだろう?
そして私はこれからどうしたらいいの?
霧の中に迷い込んだように、同じ場所でぐるぐると一人回っているように感じて、誰か助けてと強く思ったとき、不意に大好きな老人の声が聞こえてきた。
『逃げる振りを続けるのはお辞めなされ』
私は中嗣から逃げていないし、逃げる振りなんかしていない!
反射的に私は心の中で叫んだ。
ねぇ、会いに来て!
もういないなんて、嘘だと言って!
今こそ、いい言葉を与えてよ!
困ったときは、いつでも助けると言ってくれていたのに!
声を上げて叫ぶ気力はなく、ただ思い浮かぶ笑顔に向かって、私は心の中で伝えたんだ。
虚しいだけだと分かっていて。
中嗣の手が額を撫でていた。冷たくて気持ちがいいのは、熱のせいだ。
目の端から熱いものが零れたのも、気のせいに違いない。拭われてしまっても、それは気のせいなんだ。
あの人のために、泣くもんか。と思うのに、いつも泣いてしまうのが悔しい。
羅賢の思い通りになんて、生きないんだからね。
去ってしまったことを後悔するくらい、こちらの好きに生きてやるんだ。
羅賢にも負けないように。考えないと。早くいい答えを探さないと。
今までのように、考えなくてはいいと言っていられない状況だ。
あぁ、そうだ。
頼に会わないと。
ようやく頭の中のおしゃべりが止まったときには、心底ほっとした。
いつまでも止まらない思考に疲れ果てていたから。
考えても分からないのだから。今は休もうか。