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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第六章 したうもの
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14.思い出してみましょう


 中嗣がこちらを見ると、夕陽が背中にあって顔が暗くなった。

 あのときは、何故かその顔の暗い部分で泣いているような気がしたのだ。

 だから手を伸ばした……ということにしてみよう。


 それが無理な言い訳であることは分かっている。

 中嗣はこんなところで泣く人ではないし、少し影となったくらいで流れた涙が見えない明るさではなかった。


 では何故、あんなに胸が苦しくなったのか。

 中嗣の頬に触れた瞬間、私は泣きたい気持ちになった。

 胸がつんと詰まって苦しくて、中嗣に何かしなければという焦燥感に駆られたのだ。


 中嗣が泣けば、あの苦しさから解放されていたのだろうか。

 それとも実は、自分が散々泣いてきたから、中嗣にも同じように泣いて貰い、弱みでも握ろうという焦りだったのか。


 それから中嗣は身を屈め、私がより触れやすくしてくれた。

 それをいいことに、頬を撫でていたら。

 突然手を掴まれて、そのまま滑るように導かれ、手のひらに柔らかいものを押し付けられたのだ。


 これは思い出すと今でも体が熱くなってしまうので、忘れたいことである。


 あのときは、どうだったか。

 その意味が分かるまでに時間が掛かり、そして分かった途端に、ぱっと炎が上がったように体中が熱くなり、同時にあちこちから力が抜けていた。



 中嗣はそれで辞めてくれなかった。

 くすっと笑ったことが、触れたところから伝わって、私の体がなお熱くなっても、中嗣は手を離してくれず。

 それどころか空いた手で、後ずさりして離れようとする私の頬に触れたのだ。と言ったが、後ずさり出来ていたかどうかも怪しい。何せ、体は固まっていた。


 これはいけない。

 逃げた方がいい。


 そう思う私の体は、河原に転がる石と同じことになり、焦っている間にどんどん中嗣の顔が近付いていた。


 これは良くないと、ますます強く警鐘を鳴らす冷静な私は確かに存在していたはずだ。思考まで止まっていたわけではない。けれども、それ以外の何かが、その冷静な私が出す指令をことごとく払いのけて体を固めてしまうのだ。


 見ないように、せめて目を閉じたかったのに。瞼も動かないなんて。


 瞬きも出来ず乾いているだろうに、何故か視界はいつも以上に良好で、目前で視線を落とした中嗣の睫が意外と長いのね、なんて思ったことも覚えている。

 どうしてあんなときに、そういう考えが生じるのか。


 柔らかいものがしばらくの間、唇に触れていた。

 どうやら右手は解放されていたらしいと、何を思ったか、そんなことを考える。


 心の臓が飛び跳ねたのは、離れていく中嗣の顔を見た時だった。


 それが知らない男の人の顔に見えて、私はその顔から、ひととき目が離せなくなってしまう。

 こんな視線を中嗣が他の人に向けているところを見たことはない。

 胡蝶にだって、見せなかったものだ。


 これはもう冗談でも、間違いでも、勘違いでも、正義感や責任感からの何かでもなく、本当にこの人は私のことを――。


 私が中嗣の感情を認めたのは、この瞬間だったと思う。

 やけにうるさい心の臓の音は、思考さえ奪おうとしていた。



 さて、恥ずかしいのはここからである。

 うん。思い出した今も、穴があったら入りたくなるね。


 私はそれから、腰を抜かした。

 急にがくんと足から力が抜けて、その場に座り込みそうになったところを、中嗣が支え、抱え上げてくれたことは覚えているが。


 さて、恥ずかしいことはひとつではない。

 なんと私は、そこから先のことを忘れてしまった。

 どうせ忘れて恥を重ねるなら、直前までの出来事を忘れて欲しいところである。


 だが現実は望んだ通りに運ばず、起きていたのは確かで、運ばれていた記憶もあるのに、気が付いたら家の二階の部屋で茶を飲んでいたのだから。

 あぁ、面目ない。


「落ち着いたか?」


 声を掛けられて、はっとして。


 あれ、いつからここに?

 どうやって靴を脱いだんだっけ?

 はて、なんで着替えているのかな?

 え?なんでお茶を飲んでいるの?

 あ、髪が下りている。簪はどこに?


 と、どうでもいい疑問が頭に浮かび続けて、おそらくこれは現実逃避だったのだと、今になって思うけれど。「団子でも食べないか?」と囁かれただけで、また体中が熱くなり、逃避していられないことを悟ると、すぐに思考は止まった。


「驚かせて悪かったよ。今日はもう何もしないから、安心するといい」


 中嗣は私の頭を撫でながらそう言った。

 私は心の中で、疑問を返す。


 今日は?今日はって何?


「すまない。もう二度としないとはとても言えなくてね。少しずつでいいから、慣れてくれないだろうか」


 はぁ?何を言っているの?


「大丈夫。君が嫌なことはしないよ」


 それならもうずっとしないで?


 何故、あの状態で会話が進んでいたのか。

 今になってもさっぱりと理解出来ないが、それからも私たちは普通に会話を重ねていった。いや、普通ではない。異常事態だ。


「今までは君が本気で嫌がることを恐れていたが。先はあまりに可愛いから、どうしようかと思ったよ。うん。だけど、良かったな。慣れていても困るからね。君は本当に……可愛かった。いつも可愛く、今もまた可愛いが、先は格別に……」


 もう辞めて。お願いだから。

 これ以上おかしなことを言わないで。

 それから先からのすべてを忘れて?


「今日のことは生涯忘れないだろうね。いや、あの世までも持っていくし、何なら来世までも」


 いいから忘れて?

 それからもうおかしなことは言わないで。普通にしてよ。


「すでに想いも伝えたことだ。これからは遠慮しなくていいね。華月にも少し頑張って貰おうか」


 何を言い出したの?遠慮って?今まで何を遠慮していたつもり?

 遠慮なんてなかったでしょう?

 それに私も頑張るって何?何をさせるつもりなの?


 あぁ、どうして声が出ないの?

 口を動かすことも出来ない。


 もう無理。本当に無理。誰か助けて。


 と思った時に、助けてくれる人を思い出したのだ。

 そうだ、玉翠に助けて貰おう!




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