12.清算出来ない過去があるなら
中嗣がこうして華月を抱いて歩いたのは、おそらくは自分のためだ。
内側に巻き起こった嵐を鎮める方法が、この男には他にない。
されどもそれは、華月にも同じ効果を与えていた。
抱き着いて、顔を隠したまま、華月は小さな声でそっと中嗣に語る。
「あのね、中嗣。私は――」
ところが中嗣は華月の言葉を遮るのだ。
それも自嘲気味に笑いながら。
顔が見えない状態にあったことを、心底良かったと思っていることだろう。
「諦めろと言われても、それは無理だよ」
「どうしたら聞いてくれるの?」
「話ならばいくらも聞くが。それはまた帰ってからゆっくりと語り合わないか?」
「もう恥ずかしい」
耳をくすぐる甘えた声。
ぎゅっと抱き着く仕草。
そして伝わる体温。
中嗣はこのまま駆け出して、愛しい娘をどこか遠くへと攫ってしまいたかった。誰も知らない、二人だけの場所に連れ込んで、二度と出ぬようにしてしまいたい。
そんな熱い想いを抱えれば、内側に轟轟と唸りを上げていた感情も鎮まりゆくというもので。
「この件で君に問いたいことがあってね」
華月は体を強張らせたが、すぐに力を抜くことになった。
中嗣のそれが、想定していた問いではなかったからだ。
「玉翠の娘になれて、どうして私の妻になれない?」
「それは……」
「官だからと言うなら、私は官だからこそ君を妻に出来ると返すことになるよ」
「それは狡いよ」
「あぁ。狡猾でなんとも厭らしく、その上に確実な方法だね」
「中嗣はそんなことしないよ。優しいもの」
「するつもりはないが、そうしてしまいたいほどに、君を想っている」
「それはもう辞めて」
中嗣が華月を困らせる言葉を重ねていれば、南大橋まではあっという間に辿り着いた。
橋を渡れば、左手にはすぐ花街だが、中嗣は当然これを渡らずに、大通りから細道へと抜けて瑠璃川西岸側の河原へと足を踏み入れた。
穏やかな川の流れが、あるいは空を流れるゆるりとした雲の塊が、合わせて言葉を攫うにちょうどいい川音が、二人の気を楽にしているのではないか。
双方、心の内に乱れがあるようにはとても感じられない、悩みのないすっきりとした顔を見せていた。
中嗣は比較的平らな場所で華月を下ろすと、離れたくないのか、すぐに華月の手を取る。
二人は自然、横並びに歩き出した。目的地があるわけでもないので、とてもゆったりとした歩みで写本屋に近付く北側へと向かう。
「ねぇ、中嗣。本当は何もかも分かっているのでしょう?」
「何もかもとは?」
「私のこととか、私の知らない何もかもだよ」
「と言われても、困るな」
華月は一つ頷き、また口を開いた。
「さっき思ったことを言っていい?」
「もちろん」
歩みを止めたのは、中嗣からだ。聞き逃せない大事な話だと思ったのだろう。
手を繋いだまま、横並びで立ち止まる。
「私はまだ中嗣との先は考えられそうになくて。うぅん。考えてもよく分からなくなってしまうの。それでも今も分かることがあってね」
まだという言葉から受け取る重みは、それぞれに違っていただろう。
中嗣は満足そうに頷いて、華月の言葉を待った。
「この先がどんな形になったとしても、何も知らずに守られて生きることだけは、いやなの。この間から、ずっと、それだけは思っていて……さっきも何か私の傷のことで隠したでしょう?それはいやだと思ったよ。私のことなのに、私が知らないなんていや」
しばらく黙っていた中嗣から、やがて息が吐かれる。
困ったような、少し情けない笑顔がそこにあった。
「君と私がよく似ていると、かつて言っていた人があったが。確かにそうだと思えてしまったよ。君と私は似ているところがある」
「もしかして羅賢のこと?」
「あぁ。何かに付けて、よく似ていると言われたね」
「中嗣にも言っていたんだ」
華月は二度頷いてから、まっすぐに中嗣の瞳をとらえた。
「私は羅賢のようなことも、もういやだよ」
中嗣もまた、そのまっすぐな視線を受け止めながら、懐かしそうに目を細めて言った。
「あれは私も納得していない」
「羅賢は本当にもういないの?」
この数日頻繁に見られた縋るような視線が、中嗣に向かうのは久しぶりだ。
愛しい娘はようやく甘え方を覚え始めたのだと、中嗣は理解する。
気持ちのままに急いてはならないと自身を戒めながら、中嗣は華月の問いに返事を示した。