12.おとなしく叱られます
利雪と宗葉は番頭に案内されて、逢天楼の本館から渡り廊下で繋がる庭の離れにやって来た。
何故このように用意周到なのか。街の写本師と妓楼屋の繋がりについては、宗葉でも容易に想像が付くような話題はない。
離れの中に入ってから襖を二つ越えると、正座をしていたものの、腕を組んで堂々たる態度の華月に迎えられた。
「まずはお座りくださいませ。お二人からのお話の前に、少々申したきことが御座います。お聞きいただけますでしょうか?」
利雪らは言われた通り、華月の前に用意されていた二枚の座布団へとそれぞれ腰を下ろした。それが同意を示す。
「そのような酷いお顔で、店に来るのはお辞めください。私が玉翠に叱られてしまいます」
もしや折檻として、酷い目に合ったのではないか。
心配そうな利雪の顔を見て、華月は首を振った。声に苛立ちが表れているが、人を気遣える冷静さはあるようだ。
「玉翠は心配症なんですよ。先日参られた後も、一刻も説教されて……私が飲み歩けないように、三倍も仕事を増やされてしまいました。今日も帰ったら、何と言われるか」
「しかし、先日も昼間からこちらに……」
華月の冷ややかな瞳に射抜かれ、宗葉はそれ以上言えなかった。
「悔しかったので、三倍速く仕事をしてやりましたよ。おかげで体が痛くてなりませんね」
「そんなにお忙しいなかで、私の依頼した訳書を手掛けてくださったのですね」
泣き出しそうなほど情けない顔の利雪は、頼りなく言う。
「それは仕事ではありませんから、お構いなく。しかし、利雪様。此度のことでよくお分かりでしょう。くれぐれも訳書について、余計なことをなさりませんように!」
その後に呟いた言葉が、利雪と宗葉には重くのしかかる。
「我らの命は、貴方様らのように重くはありません。どうか、ご配慮くださいませ」
否定したい。けれども、それが実のないことであることも知っている。
利雪はぐっと下唇を噛み締めた。
「お二人様は、妓楼屋など簡単に潰せるお立場にあられます。遊女たちにも迷惑が掛からぬように、そちらもご配慮くださいませ」
「あら?それを分かったうえで、ご依頼を受けたのは私よ。ここが潰れるなら、それは私のせいだわ」
襖が開き、入ってきたのは胡蝶だ。今宵も変わらず美しい。
その胡蝶に、華月の苛立ちの矛先が変わった。
「入って来ないようにと言ったでしょう?」
「お茶をお持ちしたのよ?」
お酒の方が……と呟いた華月を、飲むのは辞めてちょうだいと胡蝶が窘める。
茶を淹れて配った後に、胡蝶は華月の隣に腰を下ろした。まるでもう立ち上がらないというように、どっしりと構えて動かない。
利雪はここで気付いたが、二人はどちらも座布団を使っていなかった。宗葉はまだ気づいていない様子である。
「胡蝶、もう関わらないで」
「関わることにしたのは、私よ?」
「庇い切れないよ?」
「そうかしら?」
二人は長く、目を合わせて黙った。
折れたのは、華月である。
「先のお酒は美味しかったから……あと五本くらい」
「それは多いわ。せいぜい二本ね」
華月の表情が少しだけ柔らかくなった。
これを受けて宗葉が知らず肩から力を抜いていたが、まだ利雪は緊張を解いていない。
何も解決していないのだから。
「先にお話しさせて頂きまして、ありがとうございました。それでは、ご用件をお話しくださいませ」
床に手を揃え、丁寧に頭を下げると、華月は穏やかな表情で顔を上げた。
「何から、お話しすれば良いものか……」
宮中から駆け出してから時間もあったのに、利雪はまだ伝える言葉を選べていなかった。
あまりに酷い話で、自分がそこに属していることにも嫌悪している利雪だ。
同じ括りで見られたくないという思いもある。何せ、目の前にいるのは憧れの写本師なのだから。
「では、こちらからお話ししましょうか?」
写本屋での対応から、もしやと思っていたが。
どうして華月がすでに宮中の内情を知っている?
利雪はまっすぐに華月を見据えた。瞳が交差するも、想いは伝え合わない。
「どうせ、先の無能な医官殿らが、はじめから私の自作自演とでも言い出したのでしょう?」
無能と言い切る彼女の言葉には、さほどの感情は込められておらず、いっそ清々しく感じられるものだった。
「お礼を固辞していたのも、このためですか?」
「私だって、受け取りたかったですよ。あれだけあれば、好きなだけ書を買い、上等なお酒をたらふく飲んで、どれだけ至福の時間が……」
想像を膨らませ過ぎてうっとりと緩ませた顔を慌てて正すと、華月はさらに言った。
「頼まれて手を貸せば、お礼を受け取れと強いられ、果ては呼びつけ、宮中のために働けというところでしょうか?礼を受け取って、素直に宮中に伺っていたらどうなっていたことでしょうね。その場で断罪されて、今頃は首と胴体が離れていたかもしれません。さりとて私が関わるところから拒絶すれば、それはそれで、どこの誰に迷惑が掛かったものか。身を隠しても怪しいと言われていたことでしょうし。そちらが探し始めたところから、私はずっと危うい崖のふちを歩いていたわけですが、お二人様はお気付きになられておられたでしょうか?」
「初めからではありません。少なくとも我らはあなたを探し始めたとき、誰かを脅すような真似をする予定もありませんでしたし、ましてや人の命を奪うことなどは、これまでにも一度も考えたことがありません」
「それが甘いのですよ、利雪様。官が動けば、民の命など意図せずとも風に吹かれるように軽々と散ることになるのです」
利雪はしんと静まる部屋の中で、息苦しさを感じた。
最初から、命を危うくさせていた?大事な写本師殿の?
そんな意図は当然ないのに、どうしてそのように責められる?
だが結果はどうだ?今や、大事な写本師殿の命は危うい場所にあるではないか。
医官らは自作自演を興じたその者を連れて来いと息巻いている。
尋問し、誰と通じているか吐かせると言っていた。それこそ、同じ毒でも使って。
利雪らが呑気に華月との交流を深めている間に、そのようなことになっているとは知らず。話を聞きに行けば、医官らの結束した態度に驚かされた。
それで詳しく話を聞きたいと願い出たのに、医官らは医のことを知らない文官などにはとても説明出来ないから、二人はただその助言者を連れて来るだけでいいと言う。話にならない。
「それくらいにしておいたら、華月?」
胡蝶が柔らかく言った後、華月は利雪と宗葉を何度か交互に見てから、小さく笑った。
あまりに酷い顔をしている二人が、可笑しかったのだろう。
「分かっております。利雪様も、宗葉様も、そこまで考えていらっしゃらなかったのでしょう。命じられた通りのことをしていただけ。悪いのは、お二人よりも上の立場にある方です。しかしながら、今後はどうか多少なりともお考えの上で行動下さいませ」
「まったくもって、此度のことは我らの落ち度です」
「なんとお詫び申し上げれば良いか……」
「落ち込まなくて結構。詫びなど要りませんから、助けてください。お二人様は、その立場にもあらせられます」
華月が言ったとき、狭い部屋の空気は、これまでとすっかり異なるものになっていた。
「必ずや」
利雪と宗葉が重なるように言うと、華月はにこりと笑って、満足そうに頷いた。
「医官殿らにご助言頂いた内容の意味について、教えて頂けますか?」
助言の内容は知っているが、その意味は利雪ら文官にはとても分からない。
華月は少し考える時間を置いた。瞼を閉じて、再び開くまでの僅かな時間に、彼女はこれから話すことをまとめたのであろう。
「お二人様は、医術書をお読みになられたことは?」
利雪も宗葉も首を振った。二人とも医術に触れたことはない。
ただ利雪は、医官から助言の紙を受け取るときに、その書を借りられないかと願い出てはいた。
しかし医官は、これは門外不出だからとても文官には見せらないと言って、その時点ですでに利雪は体よく追い払われたのだ。
すでにそのときから、医官らに不穏な考えが蔓延していたのかもしれない。
「そもそも、西国医術書の第三集が自由に閲覧出来る状態にあること、そこに問題があります」
文官の立場では自由に閲覧は出来なかったが。医官らは知った書であることには違いない。
「どういうことです?」
「西国の医術書は、第一集、第二集は、人を治癒するためのまともな医術書です。けれども第三集は、その逆」
逆とは何だと、利雪と宗葉が僅かな間に想像を膨らませるが、それは正しくないものだった。
「人を殺める手法について詳しく書かれています」
ぞっとして身震いしたのは、二人の文官のみだ。
胡蝶は変わらぬ優美な微笑を称えていたし、言った華月も特に口調も表情も変えなかった。
「おそらく西国では、実際に書かれた手法で人を殺めた経緯があるのでしょう。その手法は多岐にわたり、絞殺、刺殺、毒殺……いずれにおいても、人を使い経過観察をしたとしか思えない内容なんです」
「此度使われた毒物についての記載も?」
「えぇ。コハンナナという名の毒草ですが、私も実物は知りません」
聞いたこともない名を覚えようと、利雪らは真剣に耳を傾ける。
「コハンナナは、すぐに症状が出ません。効果を出すには、体に毒を溜める必要がありまして、十日ほど摂取し続けるとようやく発熱や倦怠感、眠気などの、風邪と似たような症状が現れます。そこで摂取を辞めれば、風邪と同様に完治してしまうのです」
「何故その毒だと分かったのです?」
「毒味役がいるような高貴な方には、とても適した毒だからです」
そう言えば……と、気付く。先日の医官も、風邪が流行っていたと話していたではないか。
「毒味役が風邪で倒れて交代すれば、また新たな毒味役が一から毒を溜め込みます。この毒味役が倒れたところで、流行りの風邪にやられたのだろうと思うでしょう。回復した毒味役と交代しても、体に溜まった毒はすでに離れているでしょうから、また一から毒を溜め込むことになります。それで体調を崩しても、風邪をぶり返してしまったのかな、という程度のこと。同じ食事を食べ続けた高貴なお方も、風邪の症状から始まりますので、そこから悪化したところで、風邪を拗らせたという話になるのです」
宗葉など唸るしかなかった。
毒殺の手法が書かれた書物から、高貴な者に適した毒を選び、そこから最も可能性の高いものを選んだとすれば。一冊丸ごと頭に入っているようなものではないか。
まさかすべての書を暗記しているなんてことはあるまいな?
疑うように宗葉は華月を見やったが、華月の表情にその答えがあるはずもなく。
「もうひとつの医術書はどのような意味がありましたか?」
「先に申した通り、西国の医術書第三集には人の殺め方は書かれていますが、治療についての記載が一切ありません。そこで、南方の解毒術に頼りました。コハンナナという毒については書かれていませんが、症状は違えども、同じように体に溜まることで害をなす毒はいくつかあります。ヒソなどがそうですが。同じ解毒術で治るのでは?という可能性を示しただけです」
「コハンナナは、どこでも手に入るものなのでしょうか?」
この国ではまず見ない。と、華月は言った。この国の医術書には、そのような毒の説明が一切ないという。また、薬師向けの書にも説明はなかった。
「では何故コハンナナだと特定出来たのです?毒ならば、他にもいくらでもありますよね?」
「利雪様も、宗葉様も、少し前に、西国から大きな商船がやって来たことをご存知ありませんか?」
宗葉が、「あ!」と声を上げる。
毒殺の手法が書かれた本から選び取っただけではないのだ。すべてを繋げて、コハンナナという毒薬に辿り着いた。
医者よりも、医に長けた、医者でない者。
その言葉を今、宗葉は噛み締める。
治療することしか考えのない医者には到底思い付かない領域に、写本師だから届くのか。
「私から言えるのは、それくらいです」
華月が発言を終えた。
これから長く続くと思われた沈黙は、あっさりと破られる。
「次はわたくしが」
言った胡蝶を華月がきつく睨んだが、胡蝶は優麗な微笑みを少しも減らさない。
「少し前に幾人の御方々が、西国の品々を振る舞われていかれました。中には宮中の御方もおられましたが、お聞きになられますか?」
華月が、言葉を足す。
「利雪様、宗葉様、分かっておられますよね?」
利雪らもその意味がもう分かる。
「必ずや、お守りします」
「どうか二言のないようにお願いいたします」
華月のそれは、懇願するようなものだった。遊女らには迷惑を掛けたくないのだろう。
「宮中の皆さまにおかれましては、覚礼様、露丁様、羅半様が、とくに羽振りよく振舞われておりました」
利雪らの顔色が変わる。
七位文官の覚礼。八位文官の露丁。八位武官の羅半。
「お二人はすでに、此度の騒動の黒幕であられる方に、目星を付けられましたね?」
利雪も宗葉も頷いたが、それを説明するわけにはいかなかった。
華月は微笑むと「その方がよろしいです」と言ったのである。
「いや、待て。疑うわけではないが」
宗葉はどうしても気になったことがあった。しかし先を続けると、どうしても疑うことになりそうで、言葉を選んでいる。
ところが華月から言われてしまった。
「西国の商船から私がその毒を買ったという事実はあり得るか?というお話ですね。確かに私は商船を観に参りました。西国の書を手に入れたいと願ったからです。コハンナナに関しては、そもそも見たこともない毒で探してもおりませんが、これを信じていただくことは難しいでしょう。すでに商船は去ってしまいましたから、私がやり取りをした者から証言を得ることは出来ませんし、たとえその者がここにいても、買収して嘘の供述を頼んだなど言われてしまえば、何の意味も成しません。しかし万が一にも私がそれを手に入れて、さてどうやって私はその高貴な御方の料理にそれを仕込むのでしょうか?それも毎日毎食。そのように考えますと、まずは毒を混入した下手人を見つけることが先だと思いますね。確実に宮中内部におられるのですから」
宗葉に仕事が出来た。ここで華月の無実を証明しようとしても無駄な時間となることはよく理解出来たから、出来ることをするしかない。されども相手が相手なので、宗葉はまた唸る。聞き込みをするにも、場所が悪い。
その隣で利雪は青ざめていた。
その者が華月のせいだと責を押し付けたら?何か怪しい医官らも同調し華月を責めたとしたら?
そのときは仕方がないと言っているような諦めを感じる目の前の笑顔が、利雪の胸を締め付けている。