11.流れを変える人が現れましたよ
まるで空から降ってきたように、目の前に突然あった磁白という偽名を持つ男に、華月は悲鳴を上げそうになった。
人がよく流れる南大通りであるが、だからと言って一体どこに身を隠し、どうやって現れたのか、華月には何から何まで分からない。
「もう少し真面に現れることは出来ないのか。華月が驚いているだろう。それに君は謹慎するようにと、邑昌殿からも言われていたね?」
「しばし職務から外すと言われただけです。なお本日は、新年の休暇を頂いております」
「さすが甘いな。邑昌殿の美点と言っていられぬことは惜しいが。それで君は、休暇中に人の後をつけて良いと誰に習ったのだ?」
「いえ。これは自主的な鍛錬中でして」
「ほぅ。自主的なね。誰に頼まれた?」
「本当に誰の意志もありません。あるとすれば、私の、中嗣様をお守りしたいという意思でしょうか」
「君に守って貰う必要はないのだよ。あとでたっぷりと話をするが、ひとまずは華月に謝るといい」
「はっ」
磁白が左足を引いたとき、中嗣は急いで彼を止めた。
「待て。このような往来の激しい場で何を考えている?」
「これは申し訳ない。中嗣様の大事な御方とあらせられましたら、地に這いつくばって、誠心誠意お詫びをいたさねばと思いまして」
「……もう今日は謝罪しなくていい。いや、もう二度とだ。君に謝罪をしろと言った私が悪かった。それより鍛錬中だと言ったな。写本屋まで鍛錬がてら、これらの荷を運んでおいてくれないか」
「かしこまりました!お任せを!」
「それから、しばらく二人でいたいから、もう今日は付け回すな。写本屋からまっすぐに宮中へ戻りなさい。休暇中なら自室でよく休めと言いたいが、どうしても暇で何かしたいと言うなら、無色人屋の様子でも探っておいてくれ」
「はっ。仰せのままに」
元気いっぱい答えると、すべての荷を持って、磁白はたちまち姿を消した。
華月は瞬きながらきょろきょろと辺りを見渡すも、磁白が残したものはそよ風くらいだ。
さらに探そうにも、その印象の薄いどこにでもいそうな顔が、人探しを困難にすることを華月は初めて知った。強く衝撃を受けたところなのに、磁白の外見の様子が華月にはよく思い出せない。
「武官って、みんなあんな感じなの?」
「いや、あれは特殊だよ。さて、私たちはどうする?」
おかしな男がいたことを忘れるべく努めるように、中嗣は平然とした顔で華月に今後の希望を問うた。
華月もまた忘れたいのか、首を傾げていつものように聞き返す。
一人の男が強い印象を残してくれたおかげで、色々あったことをこの瞬間は忘れられていた。
「どうするって?」
「帰って休むのもいいが。二人だけで話したいことはないか?」
あっという間にこれまでのことを思い出した華月が顔を曇らせる様子を、中嗣は見られなかった。
聞いたくせに、華月が答える前に中嗣は華月を腕の中に置いたからだ。
されどもこれにより華月は悩む間を得ずに済み、いつものように応対出来るようになったことも事実である。
「たった今、往来の激しいところで何を考えているんだと叱っていたよね?そういう常識は持っていると思っていい?」
「常識はあるが、これは問題ない」
「沢山人がいるよ?官にも見られるよ?」
「それも問題はない」
「問題大ありだよ。んもう、離れて」
口を尖らせながら言った華月が、その両の手でぎゅっと中嗣の衣装を掴んで離さないのだから。
甘えているのだろう。ここがどこであろうと、たとえ歩む人たちの邪魔になっていようとも、そんな華月を中嗣が腕から離すはずはなかった。
「痛んだだろう?」
「どうして?」
「それくらい分かるよ。痛みはどうだ?」
「もう感じないよ。どうしてなんだろうね」
「さてね。荷もなくなって身軽だから、君を抱えて歩いてもいいな。どこへ行く?」
「自分で歩けるからいいよ。南大通りはもういいや。川沿いを歩きたいな」
「それはいいね。陽もまだ高いうちに、散歩と行こう」
そう言ったのに、中嗣は華月を軽やかに持ち上げると、横抱きにした状態で、人の多い南大通りを颯爽と歩き始めた。
こうなれば、華月も大人しくしていられないのは当然で。
「恥ずかしいから下ろして」
「急に動いて疲れただろう。河原まで運んであげるよ」
「恥ずかしいんだってば。下ろしてよ」
「抱き着いて、顔を隠したらいい」
「中嗣の顔は見えているよ!」
「私は何も恥ずかしくはないからね」
「んもう、恥を知って?」
どうせ下ろしてくれないと分かっているのか。
華月は中嗣の首に腕を回して、そのまま肩に顔を埋めた。
冬の華月は、中嗣にとって温石と変わらない。
冬の凍える寒さは確かにあったはずなのに、愛しい娘をそれは大切に抱える中嗣には、一切届くことはなかった。
陽が少しずつ落ち行く街の中心地から離れ行く間、周囲から種々の視線を受けることになったのだが、中嗣は涼やかな笑顔を見せることなく、これらをただ流した。抱える娘に向かう視線だけはその娘に気付かれぬように時折そっと視線を返すことで威圧していたが、そうすればそれ以上に見る者はなく。
誰の目にも、中嗣がどれだけ大事に想う娘かと印象付けることは出来ただろう。
これでまだ手を出そうとする者があれば、それは堂々と排除すべき相手ということになる。