10.重なり合って進むか、あるいは
いつも白い華月の顔から、さらに血色が失われ始め、入れた紅は一層濃く見えるようになった。
食事後も落ちなかったその紅色の唇の隙間から出て来たのは、震える声だ。
「そんな……私にはまだ仕事が出来なくて暇だからって……」
「そんなことだと思ったわ!蓬頼はね、とても大切な人の世話をしたいから、どうか休ませて欲しいと言って、私の夫に頭を下げたのよ。給金もなしでいいし、これから減給されたって構わない。休みを貰えるなら、ただ働きでもなんでもする。それで足りないなら、クビにしてくれとまで言ってね」
「女将さん」
「昔のことなんだから、いいじゃない。お伝えしないと、あなたも報われないわ」
「俺が報われようとしてしたことはありません」
「まぁ、無償の愛だなんて。泣けることを言うわね」
「そんな綺麗なものも俺にはありませんよ。これ以上は、彼女にも連れの方にも迷惑になります」
女将がこのように言うのは、わざとだろう。
中嗣が華月の腰を抱いている様が見えていないはずはない。
中嗣は宮中でそうするように、涼やかに微笑んでいた。こんなときに笑う男だから、華月に長く気持ちが伝わらなかったのだろう。華月側にも問題は多々ありそうだが。
その華月はと言えば、まだ中嗣を見ず、蓬頼に視線を置いていた。
まるでその表情をひとつも取りこぼしてはいけないというように。
しかし蓬頼という男は、女将から何を言われても顔色ひとつ変えず、愛想笑いもせずに、声色どころか、ゆったりとした口調も変えず、嫌がっているでもなく、されども照れている様子もなく。
何を考えているのか、その様子からは分かりにくい男であった。
「あら、ごめんなさい。蓬頼の大切な方があまりに可愛らしいお嬢さまだったから、つい言わなくてもいいことまで言ってしまったわ。気になさらないでくださいね」
華月は頷いたが、中嗣は気にしているに決まっていよう。
だから中嗣は気にしていないとは言わなかった。
この南大通りで商売を長くしてきた女将が、官である中嗣の不機嫌さとそこから派生する可能性のある恐ろしさを分からぬはずはないのだが。
「そうだわ、柏通りの茶屋をご紹介したところなのよ。今度あなたが案内してさしあげたらどう?」
「いや、俺は」
「久しぶりに会ったのでしょう?積もる話もあるのではなくて?次の休暇だって、どうせ釣りに行く予定だったのでしょう?この時期に釣りなんかしても、寒いだけで何も釣れないんだから。他に予定がないなら、一緒にお団子を食べてきたらいいわよ」
「それは」
「ねぇ、どうかしら?華月様はどう思います?」
「え?私は……」
華月の視線がしばらく泳ぎ、ようやく傍らにある中嗣をとらえた。
間近で見上げられて中嗣はにこりと微笑むが、いつも華月に向けるそれではなかったことが、華月に不安を誘う。
「こちらからも華月が世話になった礼をしたいし、当時の話を聞いてみたいところだ。そういうことなら、ご馳走させて貰おう」
「それには」
「うちの子にお気遣いいただけたことは大変嬉しく思いますけれど、古くからのお知り合いですと、当人同士で懐かしく話したいこともあるのではないでしょうか?それにご馳走したいのは、私たちも同じですのよ。蓬頼がかつてお世話になった方ですもの。華月様をお誘いする前には、蓬頼に十分な小遣いを渡すことにいたしますわ」
この女将は凄い。
ことごとく蓬頼の言葉を遮り、自らの望む方へと話を進めていく手腕。
官相手にこれを披露出来るのは、長く南大通りで店を営んできたからこそなのか。
もしかすると、縁故となる上位の官が存在しているのかもしれない。となれば、中嗣という名を聞いて、何者かと理解している可能性もあるが。
知っていてこの対応だとすれば。怖いもの知らずか、それとも従業員を想うあまりの言動か。あるいは余程強い後ろ盾があるか。
しかしながら、中嗣もまた、宮中にて長く過ごしてきた官だ。女将に流されてやるほどには弱くない。
「華月がそうしたいと願えば、そのような時間も作ろうが。君はどうしたい?」
華月と中嗣の瞳が交差する。
華月は何も答えず、しかし中嗣の衣装を摘まんで軽く引いた。
心がふわりと軽くなったのは、中嗣の方だ。
「今決めることではなかったね。茶屋の件は、また改めて考えるとしよう。実は次の予定もあって、醤油を頂き、そろそろお暇させていただこうと思うのだが。勘定をお願い出来るだろうか」
「かしこまりました。蓬頼、お住まいのところを聞いておきなさいね」
「はぁ」
蓬頼は女将が店の奥で品物の準備をする間、華月ではなく中嗣に向かい頭を下げた。
「ご無礼申し訳ありません。茶屋などに誘うつもりはありませんので」
「おや?別に構わないのだよ。私が君にお礼をしたいというのも本当だ」
「いえ。礼には及びませんし、礼をされるようなことをした覚えもありません。では、私はこれで」
ガラガラと台車を運び、奥へ消えていくが。女将が許さなかったのだろう。
蓬頼は台車を持たずに、すぐに華月の前に戻ってきた。
「すまん。見送りまでここにいる」
「うぅん。平気だよ。えっと……」
「久しいな」
「あ、うん。そうだね。とても久しぶりだよね」
「元気そうで良かった」
「うん。そちらも」
不慣れな会話は長く続かず。ただの古い知人である二人は沈黙してしまう。
中嗣がどういう気持ちで華月の傍らにあり続けているか、いつもの華月であれば、少しは察することが出来ていたかもしれない。
それでもいつもの華月だったとしても、蓬頼という男の存在は知らないはずだと信じていよう。
この前提から間違っているのだから、中嗣の実際の気持ちを慮ることなどどうしたって不可能なのだ。
当然聡い中嗣はそれを分かっているし、華月に察して欲しいなどとは願っていない。
だが、生じてしまった熱く燃え滾る感情を心の内に隠し切れず、瞳から溢れ出たそれを華月にぶつけるわけにもいかず、すべては蓬頼という男に注がれたのだが、男がこれに応えることはなかった。蓬頼はもう中嗣を見ようとしなかったのだ。
醤油屋の女将は、店を出る際にも「またいらしてね。今度は蓬頼に会うためだけに来てくださって構いませんわ。もちろん私とのお喋りを楽しみに来てくださっても嬉しいわよ。蓬頼の今までの様子をお伝えしますからね」と華月に伝えるほど、蓬頼を想っているらしい。
完全に存在を忘れ去られていた利雪と宗葉は、醤油も買わず、醤油屋の前で中嗣らと別れた。今度改めて写本屋に行くという約束を伝えるだけの強さは、利雪にも残されていたのだが。
華月は返事をしたが、どこか上の空で、利雪をも心配させた。それでも利雪は、すべてを中嗣に任せることにして、宗葉と共に立ち去っていく。
ここに利雪の急速な成長が現れていることなどに注目する人間は皆無だった。
醤油屋を離れたときには、当然ながら中嗣は大荷物を抱えていた。
沢山の書に、多くは小さいとはいえ幾本もある醤油瓶。さらには団子も買っている。
これでまだ、買い物をする気だろうか。
華月は中嗣の顔を見ないようにしながら、それでも手を差し出した。
「また絞り染めだね。貸して。醤油は私が持つよ」
醤油屋でも、書店とはまた色彩の違う絞り染めの、今度は布袋が提供されて、醤油瓶はその袋にまとめてくれた。
おかげで今の中嗣が抱える荷は華やかである。
「君は気にしなくていい。手を借りることにするからね」
「え?」
「いつまでも付き纏われては面倒だ。出て来なさい、磁白」
中嗣から唐突に出た低い声に、華月は素直に驚き、中嗣を見上げてしまった。
優しく微笑まれたとき、華月の中に強く残っていた緊張や不安が一挙に解かれていく。