9.二つの過去はここで交錯し
中嗣が涙を拭うという大事な役目を奪われたのは、完全に魅せられていたからだ。
中嗣の前ではよく泣いてきた華月であるが、今日のような華月の泣き方を中嗣は知らない。
見開かれた片の瞳からぽろりと零れ落ちた雫は、葉を伝う朝露のようにゆっくりと白い頬を伝っていった。
周囲の時を止めるようにして頬から顎へ、やがて衣装へと零れ落ちるはずだったそれは、男の手によって奪われることになる。
中嗣が我に返ったのは、美しい光景に男の指先が加わったときだった。
それは他の者たちよりも、ほんの少しだけ早く。
華月の泣き顔に見惚れていたのは中嗣だけでなく、利雪も、宗葉も、華月の涙に心奪われていて、いや、おそらく、あの女将もそして店で働く女性たちも、見ていたものは一様に華月の瞳から零れた雫の先を追っていた。
あの一瞬だけは、華月は傾国の美女にも匹敵する美しさを誇っていたのだ。それは決して珍しく入れた紅のせいではない。
ともあれ一瞬ののち、それぞれは我に返り。
各々が作り出した幻影はすぐに消え去り、中嗣の内にだけ傾国の美女が取り残される。
「私にも紹介してくれないか」
ひとたび冷静さが戻れば、愛しい娘の背中に触れながら、中嗣はこの場所の主導権を取り戻そうと動いた。
しかしここで、最も冷静でない者は、華月だったのだ。
それぞれが我に返って今までと変わらぬ動きを見せている中で、華月だけは中嗣を見ようとしなかった。
言葉は聞こえているらしく小さく頷いたものの、まだ潤む視線は離れ行く男の姿を追っている。
当然中嗣がこのまま引き下がることはなく、中嗣は意思を持って華月の肩を抱いた。
普段はしないことをしたというのに、それをまた華月が嫌がりもせず、それどころか無反応で、男へと視線を注ぐ様には、中嗣は何を思うのか。
「お初お目に掛かります。蓬頼と申します。この醤油屋で働く者です」
先に頭を下げたのは、男からだった。
中嗣は頷き、「華月がお世話になったようだね。礼を言うよ」と、身内であることを強調するように伝えてやる。
その高慢な態度は、中嗣が自分を嘲笑するほどだったが、中嗣はそれを止められなかった。
「女将、この女性はただの昔の知人です」
蓬頼の言葉を受けて、華月は急ぎ醤油屋の女将に向かい頭を下げる。
「あ、えっと……華月と申します。ら……蓬頼殿には、かつて大変お世話になりました。お店に来てから、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。今日はその、そんなつもりではなくて」
「蓬頼に会いに来たわけではなかったのよね。それなのに偶然会うことも出来て、こうしてご挨拶頂けるなんて、とても嬉しいわ」
「私も、ら……蓬頼殿から女将さんには良くしていただいているとお聞きしていて、お会いしたいと思っておりました。えぇと……蓬頼殿に良くしていただき、ありがとうございます」
華月の態度こそが、蓬頼の身内のように思えて、中嗣は今すぐ体を戻してやりたくなったが、これには耐えた。しかし手を離すことは出来ず、華月が体を起こしたあとには、肩から背中へと滑らせて腰に手を回す始末。
挨拶の姿勢としては、いくら官でも無礼な状態にあるが、中嗣は華月の腰に手を回したまま、醤油屋の者たちに言葉を掛けた。これでも本当は抱きしめて、腕の中に入れてしまいたい衝動に耐えているのだ。
「改めて、私は中嗣と申す。お気付きだろうが、今は休暇中でね。この場は身の上に触れずに済ますことをお許しいただきたい」
「もちろんですわ。お休みの貴重な時に当店にお越しいただきまして有難く思います。では、こちらも改めまして。この醤油屋の女将、蓬杏と申します。中嗣様、それから華月様も、どうぞよしなに」
「あの、私はそのような身の上ではなく、様などは要りませんので」
「そんなわけにはいきませんわ。大事なお客様で、大事な店の子の大切な方ですもの」
「女将さん、彼女はただの昔の知人です」
今度の蓬頼の言い方から、普段は女将をこう呼んでいると分かる。
先は醤油屋の者として、ただの昔の知人である華月を雇い主へ紹介したに過ぎない。
しかし二度も伝えた蓬頼の言葉を、女将はそのままに受け取りはしなかった。
「蓬頼は照れ屋なんだから。ふふ。華月様は知っていらして?蓬頼が頭を下げて休ませてくれと言ったのは、華月様のためだけなんですよ」
「え?」
華月が蓬頼を見詰めると、蓬頼は指で頬を掻きながら「そんなこともあったかもしれん」と酷くゆったりとした口調で返すのだった。