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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第六章 したうもの
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8.誰が謀ったことなのか


 茶屋から隣の醤油屋へと移動するときには、少しだけ緊張した。

 いるはずはないと知っている。店に出る仕事はしていないと聞いていた。

 俺が接客をするような顔に見えるかと言って、笑わされたこともある。


 醤油屋に足を踏み入れるとすぐに、女将さんらしき落ち着いた女性が対応してくれた。それはきっと、三人も官がいるからだ。

 利雪らは忙しいと言っているのに、醤油も見てから戻ると言って共に来た。本当は暇なのではないかと思えてくるが、まぁ、いいか。二人のことだ。


「何かお求めのお品がございましょうか。ありませんでも、ゆっくり見ていってくださいね。すべて味見を行えますので、気になる醤油がありましたら、気兼ねなく仰ってくださいませ」


 わざわざ冷やかしでも構わないと言ってくれるのは、大店だからなのか、それともやはり官が相手だからか。

 ここに店を構えているということは、おそらく宮中ご用達の店なのだろう。宮中にある人達は皆、顧客であって、個人では買わなくても構わないという意味かもしれない。


「たった今、茶屋でみたらし団子を頂いたのだが、そこでみたらし餡用の醤油があると伺ってね。まずはそれを見せて頂けるだろうか」

「まぁ、茶屋でみたらし団子を。お口に合いましたでしょうか?それは宜しかったですわ。ではこちらを」


 すぐに隣の若い女性が棚から茶色い瓶を取り出した。それがみたらし餡用の醤油らしい。

 その醤油を人数分の小皿に垂らし、女将さんは私たち全員に味見をさせてくれた。その間に、どこがどうみたらし餡に最適な造りなのかを説明してくれる。

 結論から言うと、味見までしても、私にはよく分からなかった。まず普通の醤油との違いがさっぱりと理解出来ない。口に含んだそれは、間違いなく醤油だった。

 醤油の造り方や味の違いをよく聞いておくんだったなぁと思うが、これからそうすればいい。


 それから女将さんは、みたらし餡の作り方も教えてくれた。

 醤油と砂糖に、麦粉を少々合わせて煮詰めればいいというところまでは分かったが、どうしてか、言われた通りに作っても、美味しい餡が出来上がるとは思えない。


「私が覚えておこう」


 どうして言っていないのに、伝わってしまうのだろう。

 それから店の中で頬を撫でないで?


「中嗣は料理が出来ないよね?」

「君が作るより上手くいくように思うよ」

「はぁ?それはないよ。それに家には玉翠がいるんだからね!」


 つい口が悪くなって、しまったと思ったが、もう遅い。

 急いで口を押えたけれど、女将さんが笑ってくれて助かった。ここは南大通りのいい店なのだから、少しはそれらしく振る舞わなければ。柳通りにある岳の店とは違うのだ。


「お帰りの際に、作り方を記した紙をお渡しいたしますわね」

「ありがとうございます。助かります」


 先の態度を忘れて貰うために、頭を下げてお礼を言った。

 女将さんは何もなかった顔で笑ってくれるいい人である。頼の言っていた人がこの方なら、納得だ。


「まずは一本買ってみるか。気に入れば、また私が買って帰ろう」


 そうだね。まずは美味しく作ることが出来るか、検証しないと。

 普通の醤油と何が違うのかも調べてみたいから、玉翠にいつもの醤油でも作るように頼んでみよう。


 女将さんから他の醤油も味見してみないかと言われたので、私は聞いた。


「料理の好きな人が喜ぶような醤油はありますか?」


 私ではなく、別の人間が使うのだと分かるように言ってみた。

 こう言えば、私が料理について詳しくないことも伝わるだろう。

 女将さんはよく分かる人だった。


「そうですねぇ。どの料理にも合う癖の少ない醤油は、あらゆる料理を作る方に人気が御座いますわ。それから、料理に特化して選ぶ方法もありまして、たとえばたまり醤油は照りを出す料理には最適ですし、薄口のこちらなんかは煮物や汁物にはとてもよく合いますのよ。それからこちらは……」


 醤油の種類が沢山あり過ぎて、聞いているだけで目が回りそうだった。

 何がどう違うのか、聞くほどに情報の渦に飲まれ、玉翠がどの醤油を喜ぶのか、どんどん分からなくなっていく。


「選択は料理好きの者に任せたいのだが、試すには十分な少ない量で買うことは出来るだろうか?」


 中嗣が聞いてくれたとき、思わず頭を縦に振っていた。

 そうだ。玉翠に試して貰って、玉翠が気に入ったものを沢山買えばいい。


 また南大通りに来られるかどうかは分からないけれど。

 それなら中嗣や羅生にお願いしよう。


「えぇ、えぇ。でしたら、当店が料理好きの方におすすめする醤油を幾本か選んで、小瓶でご用意させていただいても構いませんか?」

「それは有難い。お願いしよう」

「みたらし餡用もお試しの量になさいます?」

「いや、それは正規の量で一本頂くよ。この子はみたらし団子が好きでね」

「それは素敵ですわ。みたらし餡がお好きなのかしら?それともお団子?」

「えっと……どちらも好きです」


 急に聞かれて、また長く悩みそうになったけれど、ここは急ぎ答えることが出来た。

 先ほどみたらし餡なら何でもいいのではないか?と思ったばかりだけれど。

 私は団子そのものの味も好きである。軽く焼き目が入った団子はなお好きで、それらが合わさると最高なのだ。


「でしたら、みたらし餡を使ったお料理などもお食べになられてみてはいかがでしょう?そちらのご提案についても記した紙をご一緒に入れておきますわね」

「料理にも使えるの?」

「えぇ、みたらし団子がお好きなら、きっと気に入ってくださると思いますの。是非お試しくださいませ」

「ありがとうございます」

「何から何まですまないね」

「いえいえ。そうですわ。うちの醤油を卸している甘味処が街に何軒か御座いましてね。みたらし団子でしたら、一押しの老舗の茶屋が御座いますのよ」

「それは是非伺いたいね。店はどの辺りに?」

「柏通りに御座いますの。地図を描いておきますわ」


 中嗣と女将さんがよく話しているときだった。

 ガタガタと音がした方を振り向けば、店の外からやって来た男性が大きな醤油樽を台車に乗せて運んでいるところだった。



 私の心臓は飛び跳ねる。


 落ち着こう。そうだ、落ち着くんだ。


 ついさっき気付いたことだけれど、私のこの衣装は、どうやら私であると人に気付かせなくする効果があって、身を隠すには最適の変装……頼には通用しなかった。


 あぁ、目が合った。


 どうしよう?


 その目はすぐに外される。


 あぁ、気付いている。どうしよう。どうしたら……


 嫌だ。凄く嫌だ。とても嫌だ。


 どうして今日に限って、こんな風に着飾っているのだろう?


 どうして今日は、官が三人もいるのかな?


 これではまるで私が――。



 込み上げてくるものを感じて、俯いて耐えていたら。


 こつんと頭を小突かれた。

 中嗣ではない。彼はこういう風に小突いたりしないから。


「何も変わらん。気にするな」


 いつもの私から日常を奪うあの声がとても近くに感じて、顔を上げたら目の前に頼がいた。


 我慢しようとしていたのに。


 我慢しなければいけないのに。


 頼の指が私の目の下を拭ったとき、頼は珍しいことに笑ったんだ。

 街で会って、このように笑い掛けられたことはない。


 ここが頼の居場所だからなの?


「祝日が明けたら、休暇が出る」


 小さな声で言ったあと、頼は離れていった。

 私は頷いて、今度こそ余所行きの顔を作る。


「急にお邪魔してごめんね」

「何も構わん。せっかく来たんだ。ゆっくり見て行けよ」


 頼が働く大切な場所で、迷惑を掛けられない。

 私は頼だけを見て、頷いた。


「お知り合いなの、蓬頼?」

「はい。何年振りかも分からぬ再会でしたので、驚いていたところです」

「久しぶりに会って泣いてくれる女の子がいるだなんて。あなたも隅に置けないわね。もしかしてあの時の子ではないの?」

「そうですが」

「まぁ、女の子だったなんて聞いていないわよ。それもこんなに可愛い子だなんて。私にも紹介してちょうだい」


 女将さんと頼が何か話しているけれど、なんだか遠い。

 頼が普段の仏頂面で応対していることは分かって、やっぱりこの人は接客には向かないねと思ったのだけれど。


 そんなことを考えるより前に、ちゃんと挨拶しなければならないことも分かっている。

 分かっているのに、言葉が出ない。

 こんなことでは、伝のことなど何も言えないね。偉そうに、叱った後なのに。


 背中にふわっと温かいものを感じて、それが中嗣の手だと気付くまで時間が掛かった。


「私にも紹介してくれないか?」


 中嗣の声はいつもと変わらなかったのに、その顔を見るのがとても怖かった。

 どうしてなのだろう?




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