2.どうにもいつもの調子が出ません
華月はこれまでとは違い、落ち着かない様子だった。
熱心に話し掛ける中嗣には短い言葉を返すだけで、玉翠には頻繁に縋る視線を向けている。
玉翠はこれに穏やかに微笑むが、中嗣は悔しくて堪らずに、なお気を引こうと言葉を重ねるのだが、変わらず華月の対応は素っ気なかった。
素っ気ないのではなく、おそらく照れているのだが。
珍しいことには、華月はそれほどに酒を飲まなかった。一口、二口と飲んでは、酒杯を置いてしまう。
病み上がりだからなのか、精神的な問題か。
そもそも病ではなく、年末からの不調が心の問題に端を発しているからには、どのみち精神的な問題と言えようが。
羅生は余興でも見ているように、三人の様子を眺めて酒を煽るも、先に言ったことが現実になりつつある。
酒を飲まぬとなれば華月を叱る役目もなく、羅生が何を言おうとこの場の皆からいつもの張り合いはなく。
ようは飽きてきたのだ。
実は羅生自身にも、いつもの調子が出ない理由はあった。
ほんの数日前までの華月の姿を見ていれば、酷く揶揄する気も失せているのだが、羅生はその全てを周りのせいだと捉えている。
いつもとは違って、今の写本屋がどうにも楽しくないという理由のすべてだ。
そうとなれば、この場を変えてしまうしかない。
「さてさて、中嗣様。珍しく綺麗にしておりますし、昼間のうちに外に出て、見せびらかして来てはどうです?」
「また君は何を言うのだ?華月は病み上がりだよ」
「医官の私が歩いた方が宜しいと言っているのですぞ。無理はいけませんがね」
中嗣は僅かの間、考え込んだあとで、華月に視線を向ける。
さて、華月はと言えば、すでに玉翠の方を向いていて、中嗣からは顔を背けていた。
それでも中嗣はそのまま聞いた。
「華月はどうしたい?」
「まだ出掛けなくてもいいよ」
「それは残念だな。街は初売りに賑わっていよう。書店なんぞ、初売りとしてここぞとばかりに珍しい書を売っているのだが」
「珍しい書を売っているの!」
華月はぱっと顔を輝かせて、羅生の方を向いた。
入れた少しの紅のせいで、いつもより華月の笑顔が華やかで美しく、中嗣はこれに見惚れて蕩けた目をしているのに、しかし唇だけは悔しそうに歪め、なんとも複雑な表情をしていた。
羅生はその奇怪な顔を見なかったことにする。
「あえて新年に売るように、年末までにいい書を入手して取り置いておくと聞いたぞ」
「どこの書店の話?」
「お前の嫌がる南大通りだが。どうする?」
「あの書店かぁ。うーん」
街一番の大きな書店は、宮中前の南大通りに店を構えていた。当然ながら、官の出入りが多い書店だ。
その分、他の街の書店では扱わないような、庶民には売れにくい専門書や異国書を扱っているだけに、華月も興味はあれど、足繁く通うようなことはしていなかった。
知らぬ官の多い場所は華月も苦手なのだ。
だから今も、迷う様子を見せている。
「私がいれば何も起きないよ。しかし南大通りまで歩けそうか?」
「それくらいは平気だよ。でも……」
中嗣は困らないの?
華月は言っていないのに、中嗣にはそれが聞こえた。だから勝手に語る。
「君と歩けば、どこでも嬉しいが。着飾っていつも以上に美しい君を連れていれば、もう誰もおかしなことを言わなくなってちょうどいいね」
「……おかしなことを言う人は中嗣だと思うけれど」
「まぁまぁ。華月が平気なら、私と共に南大通りへと行ってみないか?」
「中嗣がいいなら……行きたい」
最後は儚い小声となったのに、中嗣は破顔して華月の同意を喜んだ。
思わず中嗣は華月の頭を撫でるが、華月はおとなしくこれを受け入れ……いや、そうではなく、身を固めて動かなくなった。
華月のほんのりと染まる頬には、羅生も笑ってしまう。今まで散々に撫でられていように。
話がまとまったのを見届けてから、羅生は言った。
「さて、玉翠殿。私はどちらかと言えば、休暇中には宮中などに近付きたくない男でして。玉翠殿さえ良ければ、ここでまだ酒を飲ませて頂きたい」
「構いませんとも。よろしければ、私もお付き合い致しましょう」
「これは有難い。新年らしく共に楽しみましょうぞ」
華月が途端に焦る。
「二人は行かないの?」
そのどこか泣きそうな声には、羅生もほんの少しだけ、それはもう微々たるものだったが、胸を痛めたが、何も気付かぬふりをして言った。
「俺はすでに南大通りに行って来たからな」
それは偽りではなかった。
確かに羅生は、南大通りの官ご用達の店で、いい酒や豪華な料理を買って来たのだ。
書店で初売りをしているというのも、すでに確認済みである。新年明けて三日目である今日の街の人出にも問題ないことは把握していた。
それくらい提案するからには、調べておく男だ。
「玉翠は?南大通りを見たくない?」
「年末に食材を沢山買い込んでしまいましたからね。買い物はこれを消費してからにしたいのですよ」
「それでも、料理には関係ないお店も沢山あるし……」
「二人で行くとしよう、華月。玉翠も休みたいだろう」
君の看病をして疲れているから。とはさすがに言わないが、華月がそのように捉えることを分かり中嗣は言った。
なんと小賢しいことをするのか。いつもの華月ならそのように憤るところだが、今は頭がよく働いていないらしい。
華月はおとなしく頷いて、出掛けることに同意した。
こんなに簡単に導かれる娘ではなかったはずだが。
周囲とは違い、慣れぬ衣装や化粧から本人が与えられる影響など微々たるもので、どうしても今まで通りに出来ない事情が華月にはあった。