1.気が付いたら年が明けていました
新年が明けて三日目である。写本屋は年末からここしばらく店を閉め、写本師たちも休暇中だった。
これは店主である玉翠が定めた写本屋の決まりごとである。
正式な休暇となれば、華月も自由に出歩いているかと言えばそうではない。
それは例年のことではあったが、特に今年はそうできない事情があった。
華月が動くことを許されるようになったのは、昨日からだったのだ。それも様々な制限付きで、昨日もまだ新年らしいことは出来ていない。
開け放たれた客間の戸の影に立った華月は、顔だけをそっと覗かせて、中の様子を窺っていた。
もちろん、中にある者たちは華月がそこにあることに気付いている。
客間ではご馳走の並ぶ座卓を囲んだ中嗣と羅生が、酒を飲んでいるところだった。
華月がその様子を伺うような不審なことは何も起きていないが、華月は身を隠してそこから動かない。
しばらく待っていた中嗣が、結局待ちきれずに顔を上げて入口の方を見た。
さすれば確かに華月と目が合ったので、微笑んだのだが。
華月はまるで中嗣を恐れるかのごとく、壁の向こうへと完全に姿を隠してしまう。
中嗣は切ない苦笑を浮かべながら、あえて入口から視線を逸らし、目の前で酒を楽しむ羅生に言った。
「君がいると、華月が出て来られないようだ。分かるね?」
「何も分かりませんな。私はむしろ、中嗣様のせいと心得ますぞ。なぁ、華月?」
華月の声が返ってこない。
さて、迎えに行くかと中嗣が立ち上がるために酒杯を卓に置いたときだ。
廊下の向こうから現れた玉翠は、隠れた華月の背中にそっと手を置き、これまで以上に優しい声色で華月へと小声で何か語り掛けている。
そのぼそぼそと微かに届く声には、中嗣は悔しそうに口を歪めてしまったが、これはいけないとすぐに微笑んで、その時を待った。
年が明けて、この写本屋に集う者たちの様子が少し変わっている。
まぁ、羅生という男は、あまり変わらないのだが。
話が終わったようである。
玉翠が客間に入ってくると、華月もそれに続いたが、やはり二人には見えないようにして玉翠の背中に隠れていた。
「隠れることはないよ、華月。毎年のことではないか」
「うん。笑わないでね、羅生」
「やはり君のせいだったな」
羅生はうんざりした顔で中嗣を見やってしまった。
何せ呼び出されていたのは、羅生の方である。
玉翠が足を止めて振り返り、背中に隠れた華月を解放しようとしたが、華月はいやいやと首を振って隠れようとする。その様があまりに幼い子どものようで、羅生は呆れ、しかし中嗣はこれを愛しんだ。
何故そのような可愛い仕草を玉翠の元でする?
どうして私の背に隠れない?
いやいや、私の後ろに隠れてしまったら、私はその可愛い仕草を見られないな。
されども、そうなれば私は華月を抱えて運び、二階に移動して……
というように、かつてと同じような、それでいて少し変わった考えによって乱れた心の内を、中嗣はよく隠しているが、これもお見通しなのか、羅生は中嗣に白い眼を向け嘲笑を浮かべていた。
「大丈夫ですよ。今年はまた特別に美しく仕上げましたからね。せっかくですから、お二人にも見ていただきましょう」
「本当に笑わないでね」
「もったいぶるな。待つ方は飽き飽きとしてきたぞ。俺も中嗣様も、着飾る女など見飽きているから気にするな」
「君は何を言うのかな?飽きているなら、帰ればいい。それに私は他の女性などが目に入ることはないのだよ?」
「早う見たいのでしょう?話を合わせてくだされ」
「しかし君の言い様はあまりに……」
客間に座る男たちはごちゃごちゃと言い合っていたが、その隙を狙ったように華月が玉翠の影から出て来た。
男たちの会話も止まる。
「ほぅ」という声は羅生から、「これは……」という声は中嗣からだった。
華月は珍しく娘らしい姿をしていた。
紅色の下地に白や橙、赤紫に黄の花が幾重も咲いた長衣を纏い、金糸で隅々まで刺繍を施した白地の帯を重ねた様は、両家のお嬢さんといった風貌である。
華月が纏うそれは、そこらの街の娘が着る物としては、豪華過ぎる衣装と言っていい。
羽振りの良い大店の娘か、あるいは官の家に生まれた娘たちが着る衣装と大差なく、良質な絹糸を使って丁寧に仕立てられた長衣と帯に違いなかった。
もちろん衣装に合わせて髪も綺麗に結い上げられ、そこには玉飾りの付いた簪が飾られている。これは当然、中嗣にとっては重要な意味を持つが、ここで注目すべきは、その顔だろう。
二人の男たちが感嘆の声を漏らしたのも、衣装より先にその顔に魅入られたからである。
こんな華月を前にして、今の中嗣は何も言わずにいられるはずがなく。
「綺麗だよ、華月。今年の衣装もよく似合っている。君はまた一段と美しくなったね」
華月の頬がぽっと赤く染まった。
白粉は使われておらず、元から白い肌は染まるとすぐに周りにこれを知らしめてしまうのだ。
「普通にしてとお願いしたよ?」
「分かっているよ。ほら、おいで。共に飲もう」
「飲んでいいの?」
華月はすぐに羅生の顔を見た。許しを得るべき相手をよく分かっている。
「構わんが、病み上がりだから少しにしておけよ」
華月が嬉しそうに微笑めば、その顔は衣装に負けず花が咲いたように華やいだ。
目尻と唇にのみ紅が入れられただけの淡い化粧だが、特徴のない薄い顔だからこそ、化粧がよく映えるということがある。というのは、羅生が今この場で知ったことである。
だからと言って……羅生は目の前に座る緩み切った顔をした男を見ては思う。
このだらしのない顔をした男は、華月を絶世の美女とでも思っていようが、それはない、と。
確かに娘らしく、外で出会えば華月とは気が付かないくらいの変わり様だが、美女とまでは言わないだろう。珍しいからこそ、普段との対比によって、心奪われるだけである。
「この衣装は中嗣が買ったものなの?」
「あぁ。気に入らなかったか?」
「うぅん。綺麗だと思うよ。ありがとう。胡蝶や美鈴が着たところを見てみたいから、今度妓楼屋に持って行こうかな」
「何を言うのだ。これは君が着るからいいのだよ。君によく似合う柄を選んできたのだからね」
「中嗣が自分で選んだの?呉服屋さんにお願いしたのではなくて?」
「大事な君の衣装を他の誰かに選ばせるものか。しかし、私の見立ては間違っていなかったね。今日の君は本当に美しい」
玉翠がまだ立ったままだったのは失敗だった。華月は再びその背に隠れてしまう。
「普通にしてと言ったのに」
「あぁ。すまない。君があまりに美しく……いや、君を想って買ったものだから、君にだけ着て欲しいと思うとついね」
「分かったよ。妓楼屋には持っていかないからね」
「嬉しいよ。明日はまた違うものを着てくれるのかな?」
「……勿体ないから着るけど、新年の祭日の間だけだからね」
「分かっているよ。さぁ、おいで」
中嗣が優しい声で言ったところで、華月はなかなか玉翠の背から出て来なかった。
ここも変わったところで、中嗣は日々、小さき悔しい想いを重ねている。
「そろそろ座りませんか?お腹も空いたでしょう?」
「もう玉翠と二人がいいよ」
「それもいいですが、中嗣様が泣いてしまわれますよ」
「私の方が泣きたいのに」
こんな会話を目の前で繰り広げられて泣きたいのは中嗣の方だっただろうが、中嗣はしかし落ち込んではいなかった。
なるべく静かに立ち上がると、さっと玉翠に後ろに回り込む。
「ほら、華月。こちらへおいで。共に飲もう」
「普通にしてね?」
「そうするとも。顔を上げてくれるかな?」
ゆっくりと顔が上がれば、その機に乗じて中嗣は華月の手を取った。
華月はぱっと手を引こうとしたのだが、中嗣はそれを許さず、それで華月は縋るように玉翠を見上げるのだ。
「玉翠も私の隣に座るよね?」
「そうしましょうか。今日は羅生様がご馳走を買ってきてくださったのですよ、華月」
「そうだったの。羅生、ありがとう」
「俺が食べたいから買って来ただけだ。それに支払いは中嗣様だからな」
「また君は勝手に。しかし新年の祭日くらいは君の勝手を不問としよう」
華月が渋々と中嗣に導かれて隣に座っても、中嗣は手を離さず、しばし華月を困らせた。
「食べられないよ?」
「食べさせてあげるよ」
「……本当に普通にして?」
「冗談だよ。では、改めて新年を祝うとしよう」
四人は酒杯を掲げ合い、無事新年を迎えられたことを祝った。
いつも通りの時が流れているようで、写本屋の内側は確実に移ろいでいる。