0.序章~戻らない時間
「凄い!どうしてこんな字が読めるの?」
少女に褒められ、心から喜んでいたのは誰か。
もういい大人と言える青年は、膝上に書を広げ、これを覗き込む少女にただ笑顔を返した。
「誰かに字を教えて貰ったの?」
少女になお問い掛けられては、中嗣は答えるしかない。
「誰にも教わってはいないよ」
「一人で読めるようになったの?」
「あぁ。先に字の成り立ち方を調べたのだよ。そうすれば、あとは予測で読めるようになる」
「字の成り立ち方?それを学んだら、私にもこの書が読めるようになる?」
「あぁ。君ならすぐだ」
冷たい視線を向ける見習い遊女の禿がここに居なければ。
中嗣はもっと気が緩んだ笑顔を振りまいていただろう。それどころか、このお気に入りの少女を膝に乗せていただろうが、強烈な視線を恐れて、少女からは少しの距離を空けて座るようにしていた。
されども一つの書を共に眺めれば、自然に少女の方から近付いてきて、二人の距離を縮めてしまう。
「自分で読んでみたいなぁ。でも読んで貰うのも楽しい」
「今は私が読んであげよう。それで字を覚えてから、またゆっくりと自分でも読んでみたらどうだ?」
「うーん、この字で書かれた書は他にもあるの?」
「この国の書なら沢山あるね。読みたいなら、いくらでも用意してあげるよ」
「わぁ、嬉しい!ありがとう!」
中嗣は思わず頭を撫でてしまったが、この頃の少女はまだこれを拒絶しなかった。
辞めろという視線は、傍らに静かに座っている禿からである。
中嗣は毎度納得せずに、この妓楼屋の中庭に建つ離れへと足を運んで来た。
何故会うのはこの場所なのか。
何故禿が共にあるのか。
いい大人が数名側にあって、誰も異を唱えないのは何故か。
たまにやって来る老人は、二人、いや、三人の様子を眺めては、穏やかに笑ったものだ。
中嗣の不満を分かって、これを笑っていた。
不意に袖を引かれて、その可愛さに悶絶していることを隠し、中嗣は少女に顔を向ける。
「ねぇ、これは何の絵なの?」
少女の興味は書の中身ばかり。今度は挿絵に惹かれたらしい。
これを少しばかり悔しく感じる中嗣は、今よりもずっと若く。しかし今と変わらず、優しい顔で少女にその絵の意味を深いところまでよく語った。
「あぁ、これはね……」
中嗣の説明を熱心に聞く少女は、いつも目を輝かせていた。
その顔を見ては、この子は確かに華月だと、中嗣は再確認したものだ。
知っていた赤ん坊は、いきなり大きくなって目の前に現れたけれど、確かに記憶に残る赤子の姿と重なる部分がある。
印を確認済みと言われては疑いもないが、記憶との重なりを確認するたび、中嗣の胸の奥はじんわりと温まった。
そうして書の話ばかりしていたら、すぐに終わりの時は来てしまうのだ。
「今日も沢山教えてくれてありがとう!楽しかった」
まだこの頃は玉翠が迎えに来ていた。
少女だから当然だ。一人で外など歩かせられない。
呼び出しが掛かれば、中嗣は少女の手を引いて、逢天楼の玄関へと向かうことが常だった。
このときも案内役として前を歩く禿からは威圧感を覚えていたが、あえて知らない振りをして中嗣は少女の手をいつも取っていた。
まだ夕刻前の早い時間で、逢天楼には他に客がない。
「次はまた違う書も持って来よう」
「本当?」
「本当だとも」
「その次もある?これからも沢山教えてくれる?」
玄関に向かうまでに、少女はいつも同じことを聞いていた。
その様がどこか不安そうで、だから中嗣は安心させるように頭を撫でて伝えるのだ。
「もちろん。私たちはいつまでも会えるよ。それが本来の姿だからね」
幼い少女は首を捻ったが、どのようにか納得し、「またね!」と言って中嗣の手を離すと、玄関に立つ玉翠の元へ向かった。
玉翠は一度頭を下げたあと、幼い少女の手を引いて立ち去っていく。「ねぇ、玉翠。今日のご飯は何?」と聞く声が届き、中嗣はまだ小さな背中がさらに小さくなっていく様をしばらく眺めていた。
すると少女が振り返って、また手を振ったのだ。
思わぬ喜びに手を上げながら、中嗣は考える。
どうせなら先まで共に歩けばいいのに、そうしないのは何故か。
どうせなら送迎まで己ですればいいのに、そうしないのは何故か。
どうせなら共に食事を取ることも出来るのに、そうしないのは何故だ。
それはまだ老人の言葉を守っているに過ぎない。
ようやく慣れたところだから、玉翠の立場を奪わぬように。と言うのが、老人の説明だが。
そんな言葉に中嗣は納得していなかった。
中嗣も逢天楼を出ることにするが、あの禿がすでに消えていてくれたことに、ほっとする。
宮中のまだ当時は狭い自室に戻ると、中嗣は一人呟いた。
「もうどこにも行かないよう、閉じ込めてしまいたくなるな」
座り直すと腕を組み、一人首を振って、そしてまた呟くのだ。
「彼女はようやく広い世界を知り始めたところだ。自由を奪ってはならないだろう。それに彼ならば問題はない」
言い聞かせるために、あえて口に出したのだ。
保護したことをすぐには知らせて貰えなかった。
それどころか、それから一年近く、会わせて貰うことも叶わず。
そして今なお、二人きりで会わないように制限を課されている。
それはつまり、そういうことなのだろう。
中嗣は老人の顔を思い出しては、眉間に皺を寄せていた。
「今の暮らしに馴染んでから会わせてくれるとはね。まったく。してやられたよ」
二人はよく似ていると語った老人は、中嗣の優しさをお見通しだったのだろう。
すでに幸せそうに過ごしている彼女に、中嗣が無理強いなど出来ないことを知っていた。
ましてや、己の良きように少女を導くことなど。
けれどもそれで良かったのだ、と。
そうしなければ、本当の意味で得られないものがあったのだから、と。
中嗣が思えるようになるのは、それから何年も経てからのことである。
一体どこからどこまでが、老人の手の中にあったのだろう。