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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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26.片付くことがあるんですかね、これは


 異変に気が付き、すぐさま男は邑仙の手から転がった小瓶を回収したが、中身は土間に零れた後だ。

 ぷんと香る油の匂いに、各々はおかしな薬ではないかと急いで鼻を覆ったのだが。


「うふふ。油断したわね。早くこうすれば良かったんだわ」

「何を撒いたのです?」

「油に決まっているでしょう。この店を跡形もなく燃やしてあげるのよ」

「え?ただの油なの?」


 拍子抜けした顔で華月が問うと、「何よ、身分知らずの醜い女ね」と邑仙は吐き捨てた。

 玉翠が華月を守るように背を撫でながら冷たい視線を向けているも、邑仙は周囲からの視線に酷く疎いようである。


「ねぇ、羅生。この人は中嗣の何なの?」

「言うならば、何の関係もない女だな」

「嘘をおっしゃい!わたくしは、中嗣さまの婚約者だわ!」


 華月が酷い顔をしながら、なおも玉翠の腕の中にあるのは、この機に乗じて父親に甘えているのかもしれない。なぜなら酷い顔はすぐに移ろい、背を撫でられて嬉しそうな顔をしているのだから。


「中嗣の婚約者だと言っているよ?」

「そうではないから、あの方は邑昌様を怒鳴りつけたのだ」

「あぁ、なんだか分かったよ。中嗣も大変なんだね」

「あなた、失礼でしてよ!様を付けなさい。様を。いいえ、名を呼ぶことも無礼だわ!その名を呼ぶことはわたくしが許しませんわよ」


 華月が答えなかったことは、余計に気に障ったようだ。


「なんて礼儀知らずな醜い子なのかしら。美しさもないのに、愛想も知らないなんて。この子の将来は絶望的ね。だから庶民は嫌なのよ」


 それでも華月が答えなければ、邑仙はついに叫んだ。


「礼儀を知らなかったことを後悔なさい。今すぐ燃やすことに決めたわ。こんな場所、あの方には似合わないもの!」


 あのとても小さな小瓶から僅かに零れた油がどれだけの火を起こせるのだろう。

 しかも油が零れたのは土間の上だ。土を固めたこの場所は火が立ちにくく、運を良く炎が上がったとしても、そこからこの家を燃やすほどに大きく燃え広がるとは考えにくい。

 さらには今日は土砂降りの大雨である。雨音は先ほどよりもさらに強くなっていた。


 邑仙以外の誰もが、邑仙は一体どうするつもりなのかとその先に興味を持ってこれを見守っている。

 もちろん誰も、まず火など起こさせる気はなかったが。

 そもそもどうやって火を付けようと言うのか。すでにそこから謎である。


「ちょっと、あなた。縄を外しなさい」


 拘束されている状態では、火打石を使えないと気が付いたらしい。

 華月はその先に興味も薄れ、玉翠にぎゅっと抱き着いた。玉翠も同じ気持ちなのか、華月に微笑み、その背を撫でている。


「何を無視しているのよ。私を誰だと思っているの?武大臣の娘で、次期皇帝の叔母上さまよ!早く縄を外しなさいな。すぐに外せないなら、ここに火を付けなさいね」


 玉翠に甘える華月の傍らで、羅生などは床を掃除し始めた。

 お喋りな羅生でも、話の通じない相手とは話したくないということだ。


 必然的に邑仙の相手をするのは、黒い布を纏った男一人になる。


「火を付けたら、真っ先に燃えるのはあなた様だと思いますが、よろしいのですか?」


 男のその言葉には、華月が思わず小さな笑いを零した。玉翠も羅生も同じく、笑いを堪えている。


「何ですって?」

「小瓶の蓋を取る際に手に油が付きましたよね?その油であなた様から先に燃えてしまいますよ?それに油は、あなた様の真下に広がっているのですから、火を付けて最も危なきは、あなた様ということになります」

「移動すればいいのでしょう?」

「衣装にも付いておりましょう。ここで火を使えば、間違いなくあなた様に飛び火して、一番よく燃えることになります」

「……火はいいわ。では縄を外しなさい」

「拘束して、邑昌様のところへお連れする約束がありますので、それは出来かねます」

「お父さまは何と言っていたのよ!」

「問題を起こさないかどうか、常時見張っているように。問題を起こしたときにはすみやかにこれを拘束し、我が元に連れて参れ。とのお言葉です」

「何よ。それなら縄を外していいわ」


 男は黙ったが、邑仙の口は止まらなかった。羅生はそろそろ猿轡でも用意するかと考えているくらいに、この女の言葉を聞きたくないと思い始めている。あるいは物理的に切り捨てた方が早いのでは、と物騒なことも考えていた。


「早く外しなさいよ。問題など起こしていないでしょう?」

「こちらの店に来て、勝手に上がり込み、刀を抜いたことは大問題です。刀を用いて、こちらの皆様を脅しもしましたね?」

「庶民の店でしょう?何が悪いと言うのよ?」

「邑昌様のお言葉をお忘れでしょうか」

「知らないわ」


 ここで華月が考えていたことは、宮中にこんな者たちが沢山いるとしたら、中嗣はどれだけ苦労しているか、という点であった。

 こんな者たちと毎日会話をしなければならないとしたら、それは逃げたくもなるだろう。

 これからは宮中に早く行けと言わず……なるべく言わないように……そう、少しは言わないように頑張ってみようと思う華月なのだった。それが実現するかは定かではない。


「邑昌様のお言葉があったあとにも、先日は邑天様とおふたりで天ぷら屋にて問題を起こされましたね」

「あれはお父さまの勘違いだわ」

「その前日にも、同じく邑天様とおふたりでとんかつ屋にて騒ぎを起こされました」

「それもお父さまの勘違いね」

「ある日は宮中にても、訓練中の武官たちに演説まがいのことを行って訓練を中断させたあげく、宮中の規定とは異なる内容を指示されて混乱を招き……」

「それもお父さまの勘違いよ!私たちは素晴らしいことをしたんだわ!」


 この兄妹は普段何をしているのか。


「以前よりお二人揃っての行動は禁じられていたはずです。本日も月桂宮にてお仕事の引継ぎ業務に専念なさるはずでしたよね。邑仙様も移動するその日まで青玉御殿のお部屋からは出てはならないお達しが出されていたはずですが」

「それもお父さまが勝手に決めたことだわ!」

「それは違います。お二人の移動については主上さまの勅命として正式に発令されたものです。あなた様もその書面を受け取っておられますね?」

「どうせお父さまが書類を作り、ご自分で御璽を押されたのでしょう?主上さまは詳しいことを知らないはずだわ」


 それは邑昌が皇帝を欺き権力を意のままにしている、と言っているようなものだが。

 邑仙は己の愚かな発言には気付かず、なおも愚かな発言を重ねていった。

 記憶のある限り宮中を知らない華月でさえ、分かることであるのに。


「そんな嘘の勅命に従う必要もないでしょう?私は月桂宮に残るのだから、引継ぎも必要ないわ」

「……不忠と捉えられても仕方ありませんよ?悪ければ、謀反の疑いをかけられることになるかもしれません」

「そんなことにはならないわ。お父さまを説得するからいいのよ」

「しかし」

「しつこいわね!わたくしのお父さまは武大臣なのよ?それにお姉さまなんかが正妃をしているおかげで、主上さまはわたくしの義兄でもあるわ!そしてわたくしは次の主上さまの、大事な叔母上さまとなるんだもの。うふふ。しかもわたくしはお兄さまと違ってそれだけではないのよ。主上さまがお気に入りの次期文大臣の妻となる女ですもの。主上さまがわたくしを遠くへ送ろうなどと思うわけがありませんわ。すべては勘違いをしたお父さまの気の迷いから起きた間違いだったのよ」

「邑昌様や正妃様とのご関係については正しき部分もございますが、あの方に関してはもう二度と口にせぬようにと、邑昌様からも強く言われておりましょう」

「うるさいわね。あの方と約束したんだから、お父さまなんて関係ないのよ!」


 ガラッと戸を開ける音がしたとき、邑仙はぱっと華やいだ顔を見せたが、華月は逆にその顔をどんよりと曇らせていった。

 こんなときに帰宅してしまって可哀想にと同情したのか。


 余程外が寒かったのだろうか。傘を畳む中嗣の顔は凍り付き、とはいえ、いつもの涼しい笑みはなく、ただただ色のない目で邑仙を見下ろしていた。


「中嗣さま。お待ちしておりましたわ!」


 縄に縛られた状態で、よく言えたものである。

 中嗣の視線はすでに邑仙にはなく、奥で玉翠に甘えたままの華月に注がれた。


「また先を越されたか」


 この男もまた、こんなときによく言えたものである。ほとんど音なく発したその声は、いずれにも届かなかったが。

 いや、地獄耳なのか。それを捉えた女が一人だけ存在していた。厄介なことに。




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