25.あっという間に片付いたかと思えば
羅生を真っ二つにでもしようと言うのか。美しい顔を歪めながら邑天は刀を真直ぐに振り下ろした。
さすれば羅生は足を踏み出し横に移動して、その刀をすらりと避けると、足を踏み出すと同時に長衣の袖から取り出した腕の半分の長さもない金属棒で、邑天の刀を持つ手を強く打ち付けた。
「斯様な場所で刀を振り回すなど。愚かなことを」
侮蔑の念をたっぷり込めた声で羅生が言えば、落としそうになった刀を握り締め、邑天は羅生を睨み付ける。痛みに叫ばなかったのだから、邑天という男も武に長けてはいるのだろう。彼の手の甲は赤くなり、すでに腫れ始めている。
「貴様。私を愚弄してはどうなるか分かっているのか?」
「そのままおとなしく切られろと?阿呆なことを申されますな」
「私は次期皇帝の叔父上だぞ!」
「お会いすることも許されておらず、よく言えますな」
「なんだと!」
くすくすと急に笑ったのは、邑仙である。
「羅生さま。お兄さまは殿方ですから仕方ありませんわ。けれども、わたくしはお会いしたことが御座いますわよ」
「後宮に許しも得ずに押しかけて、出入り禁止になっているとお聞きしたが?」
「んまぁ。それは違いますわ。お姉さまは産後で気が立っていたのでしょう」
「それ以来、後宮に入ったことがなきことも聞いておりますがな」
邑仙もまた兄のように悔しそうに顔を歪めたが、すぐに顔から力が抜かれ、派手な紅に彩られし口角は吊り上がった。
「ふふ。そちらにいらっしゃったのね」
至近距離で刀を向けられていては、羅生はまだ邑天から離れられず。
羅生が早々に邑天を拘束しておかなかったことを悔いた時、番台の淵に手を掛けた邑仙の体は浮いていた。
玉翠が急ぎ持っていた小刀を抜くも、邑仙の動作がひと足早い。
邑仙はやたら豪華な装飾の鞘から短刀を抜き、玉翠の首筋にその切っ先を向けて笑った。
この女、美しく重そうな衣装を纏っていながら予想外に体は身軽だ。これこそ、邑の家の者らしいと言えようが。
羅生から舌打ちが漏れたとき、目の前にいた邑天はそれを好機と捉えたのか、再び刀を高い位置から振り下ろす。
羅生はもう我慢がならず、その一刀を優雅に避けたあとには、体を前に出して邑天の懐に入ると、金属棒でその腹を打ち付けた。
ぐうっというくぐもった声を発したあと、邑天は土間に倒れる。
「あらあら、お兄さまったら。だけど、羅生さま、いいのかしらね?それ以上動いたら、この方の命がなくてよ?あぁ、あなたは刀を捨てなさいね」
邑仙の目は、階段の上にある華月の姿を捉えている。
「前にも見た子だわ。あの子が世話役だったのね。うふふ。二階に上がらせていただくわよ」
玉翠は小刀を捨てず、淡い瞳で邑仙を見詰め、階段の前に立ち塞がった。
「刀を捨てて、場所を開けなさいと言ったのよ。あら、あなた。珍しい色の目をしているわね。何よ、あの方の奴隷だったの?それなら早く従いなさいよ」
「失礼なことを言わないで!」
二階から叫び声がしたときには、羅生は「頼むから、おとなしくしていてくれ」と呟いたのだが。
ここですーっと入口の戸が開いて、雨音が激しくなった。
羅生も一瞬は肝を冷やしたが、ずぶ濡れの男の顔を見て、一つ頷き返す。
直後には二人はもう動いていた。
いや、三人だ。
玉翠はあえて大きな動きで小刀を投げ捨てると、邑仙の意識がそちらを向いた瞬間に、男はもちろん靴を脱がず、羅生も簡易の靴を履いたまま上がり框を越えて、左右から邑仙の腕を押えた。邑仙が持っていた柄にも宝石が輝く短刀はあっさりと男によって回収される。
「あなた、どうしてここにいるのよ!」
「邑昌様より、お二人を見張るように言いつけられておりました。何か起こしたときには、これを止め、報告するようにとも命じられております。申し訳ありませんが、拘束させていただきます」
どこから出したのか、男は縄を持って、これを邑仙の体に巻き付けた。それから男は邑仙を担いで土間に移動すると、土間に転がる意識なき邑天の体にも縄を巻き付けていく。
「土間に座らせるなんて、失礼でしてよ!」
「勝手に家に上がるわけには行きませんので、こちらに移動したのです」
「庶民の家に上がって何が悪いのよ。それに痛いわ。縄を緩めなさい」
「緩めては拘束したことにはなりません」
「何よ、何よ。こんなことをして、絶対に許さわないわ!あなたたちは死罪よ!」
「ふっ。まだ分からんか」
羅生は吐き捨てるように言いながら靴を脱ぎ、「玉翠殿、土足で上がり申し訳ない。あとで綺麗に致しますぞ」と、もはや邑仙を無視して謝っている。
玉翠もまた、「いえいえ、お助けくださいましてありがとうございます」と邑仙を見ることもなく伝えたのだが、羅生はにやりと笑って「必要なかったかもしれませんがな」と揶揄する様に言うのだ。これに玉翠は答えず、穏やかに微笑むだけだった。
「もう降りても平気?」
「おぅ。偉かったぞ、華月。よくぞ、待った」
羅生は華月の言葉には感心していた。玉翠を助けにあの体で転げながら階段を駆け下りてくるのではないかと心配していたが、それを自制するだけの考えがある娘で良かったと思ったのだ。
華月がこの雨の中、どこから外に向かおうとしていたか、それを知らない羅生は心穏やかである。
ゆっくりとした足取りで階段を下りて来ると、華月は真っ先に玉翠に駆け寄った。
「怪我はない?大丈夫?」
「ありませんよ。大丈夫です」
玉翠はにこにこした顔で華月の頭を撫でた。華月もふわりと柔らかく微笑んで、とても嬉しそうだ。
「良かったぁ。玉翠に何かあったら、どうしてやろうかと思ったよ」
いつもと違って、素直に抱き着かれた玉翠は、焦ることなく華月を受け入れ、その小さな背中を撫でてやった。
中嗣に抱き締められることに慣れてしまったのだなぁと少々の寂しさを覚えながら、可愛い娘を大事に愛でる。
異変に気が付いたのは、名が二つある男からだった。