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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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24.知らぬ男が登場したのですが


 逃げる気はなかった。

 だが声から判断するに、下で騒いでいるのはあのときの男女。

 色々と解釈の齟齬はあって彼らが認めないにしても、彼らは私を探している。


 だから万が一、いずれかが二階に押し入って来たときに面倒なことがないよう消えておこうと思った。

 それから騒ぎが大きくなる前に、中嗣を呼ぼうと考えたのだ。

 見廻りの武官を呼び寄せ、事態がさらに悪化することも懸念されたので、中嗣だけを呼ぼうと。


 それがまさか、こんなことになるなんて。

 もちろん外に出るからには、武器は持っていた。あの男女が羅生にも止められなかったとしたら、表から店に戻って参戦するつもりもある。


 そこでまず確認したのは、周囲に仲間が潜んでいないかどうかだ。


 人気はよく確認したはずだった。ましてや、二階の窓の側に人がいたらすぐ気が付くだろう。

 それが分からなかったということは、かなりの手練れ。


 真っ黒い布を被ったその者に応対するため、懐に忍ばせたばかりの刀に手を掛けたときだ。


「どうかお静かに。あなた様には何もしませんし、お部屋にも上がりませんのでご安心を」


 声は意外と穏やかで、ほんのひととき気が抜けた。

 ほとんど同時に男の手は私の口から離れたが、窓から離れ息を吸い込みながら、大声を上げることを迷う。


 叫んだところで、一階から誰かが上がって来るまでに、私はこの男に倒されているか、身を拘束されているだろう。


 これはかなり厳しい状況ではないか。

 雨音のせいで、下の様子を計ることが出来ないことも、事態を悪くした。


 男の腕が動いたときには全身の神経を研ぎ澄ますよう尽力したが、男は雨に打たれることを厭わずに頭に掛かる布を造作なく取るだけで窓の外からは動かず、「どうかご安心を」と先の言葉を繰り返した。

 階下にいる男女が嫌味なほど美しいことを想えば、これといった特徴のない顔は、かえって親近感の湧く顔だ。

 このような場で出会わなければ、素朴な青年と捉えていようが。


「私は怪しき者ではありませんが、そう言ったところでこの状況では信じて頂けぬことでしょう。されど、どうかご安心ください。階下の揉め事は、すぐさまに処理させていただきます」


 何度安心しろと言う気か。言えば言うほどに怪しくなることもある。

 しかし、この素朴な顔のせいか。私には目の前の男に悪意があるようにはとても受け取れなかった。

 私がじりじりと距離を空けていても、これを止めないどころか、素直に雨に打たれ続けている状態だから、余計にそう思えるのかもしれない。


 本当にこの男が部屋に入って来ないのならば。

 こちらも素直に問うてみても良いだろうか。


「あなたは何者なの?下にいる人たちの関係者?」

「先日露煙という者がこちらに写本を依頼させていただいたことを知っておられますか?」


 男の返答は予測しないものだった。新しいお客様の名がここで出て来るとは。

 玉翠は最初官からの依頼だと疑っていたらしいが、私も名を聞いたときには同じように考えていた。

 何せ露と言えば、武次官の露愁を筆頭に、宮中に強い影響力を持つ家の名だ。

 武大臣が娘を正妃に出来ていなければ、青玉御殿は今も露の家が好きにしていただろう。というのは、羅賢が教えてくれたことである。


 かつて利雪らと出会うきっかけとなった噂の件でも、露愁の末の弟だという露丁の名を耳にするくらいに、露の家の者たちは羽振りよく花街でも遊んでいて、私でもその顔を知っている者がある。


 しかし不思議なのは、玉翠も中嗣も、露煙という名の人物には心当たりがなかったことだ。

 そしてそれは私も同じで。


 だから同じ家名を持つも、宮中とは関係ない者、あるいはかつて露の家にありながら街に下った者の子孫か、と結論付けられていたのだけれど。


「実はその際に、ひとつ、いえ、ふたつ偽りを申しました。ここでお詫びをさせていただきたい」


 雨に濡れながら男は言うが、何の詫びかも分からない私には聴くことしか出来ない。


「先日は露煙に頼まれた者としてこちらに参りましたが」

「あなたが来ていたの?」

「左様です。ですが実は、私こそが露煙と申します」


 応対したのは玉翠であって、私はこの人を知らないし、注文時に偽名を使うような人たちは沢山いるので、私としてはだから何だという話だ。

 そうでなくても街で偽名を使う官は多く、庶民に対してこれを謝る必要などないだろう。

 それもこの人が官だとしたらの話だが……官だろう。おそらく。

 だけど身分を偽ってやって来るなら、どうして依頼時に本名を使ったのか。


「さらにもうひとつ。これはあなた様を偽ったわけではございませんが、私は普段偽名を使っております。その偽名は磁白。中嗣様にはこちらの名を伝えて頂ければ、私の素性はすぐに明らかとなるでしょう」


 これで余計に目の前の男のことが分からなくなったのだが、私は思考を止めて、真っ先に白という名に反応してしまった。かつての私の名は、通常は男に使うもので、街にも白と名乗る者は沢山いた。

 何故私がその名だったかと言えば、赤子の私の性別も確認せず、見目から適当に付けられた名だからだ。それくらいに私を受け取った瞬間から、あの小屋は私に何の期待もしていなかった。


 だが今は、懐かしき過去に想いを馳せて、感傷に浸っている場合ではない。

 今はいつも以上に考えるべきときだ。いつも過ぎるくらい考えているのに、どうしてこういうときに関係ないところへと意識が飛ぶのか。


「中嗣にも偽名を使っているということね?そしてその中嗣には、ここに写本を依頼したことを知られたくなかった」

「中嗣様を偽りたかったわけではないのですが、余計に信じて頂けなくなってしまいましたね」


 一階がやけに静かだ。何が起こっているのだろう。


「露の名を語れば、私は武次官と同じ家の人だと思うけれど、それは構わないの?」

「えぇ。偽ることを辞めたいと思っていたのです」


 ということは、本当に宮中の露の家の者だということになるが。

 だからと言って、私にそれを伝えてどうする?

 中嗣にまで、ずっと隠していたことを何故私に?


「あなたと会ったことはないよね?」

「ございませんが、私は知っています」

「……私を探っていたの?」


 懐に忍ばせた手で刀の柄を握り締めてしまった。

 どうせ敵わないと分かっている相手には、無駄に戦いを挑まない方が良いことは心得ているのに。


 しかし男は大袈裟に首を振った。なお雨に濡れながらだ。


「そのように受け取られても仕方ありませんが、そうではないのです。私はただ、中嗣様に大恩がございまして、その中嗣様がお慕いし、大切にされている方をお守りしたい、ただその一心で、あなた様を探る気などはなかったのです」


 色々言いたいことはあるけれど。この人は中嗣をよく思う人だと捉えていいのだろうか?


「以前共に働いていたときがございます。その頃から、中嗣様はあなた様のことを一途に想われておりました」

「はい?」


 つい聞き返してしまった。中嗣の話になると、どうも気が緩む。この状況で気を緩めるのはまずい。


「中嗣様はあの容姿ですし、宮中でも街でも女性たちからよくお声掛けがありまして。されどいずれにも見向きもされず、ひたむきにあなた様を想い……」

「それはないよ」


 男の言葉に被せて言ってしまった。気を緩めないようにしようと考えたばかりなのに。

 不快になって怒り出す人ではないと思うけれど、油断してはならないね。

 しかしこの男、人畜無害な顔をして案外と人の話を聞かないようだ。一階にいる男女に通じる者を感じてきたな。


「さすれば、ようやく手に入りしあなた様を、そこでまた大事に想い、ゆっくりと親しき仲になられていたところに。蒼錬というあのろくでもなき男が、お二人に狼藉を働いたと言うではありませんか」


 なんだかもう懐かしい名だと思った。近頃は思い出すこともなくなったけれど、あの人はしっかりと働いているのだろうか。

 一日中文句ばかり言って不貞腐れ、嫌々働きながらも、共に働く罪人たちには文官を殴ったことがあると偉そうに吹聴している様が浮かんできた。

 うん、勝手に想像するのは悪いけれど、それが現実になっている気がしてならない。


「心配になりました私は、陰ながらお二人をお守りしようと決めたところでございまして」


 私が想像を膨らませている間に、何を勝手に決めているのか。

 せめて中嗣に相談したらいいのに。


「あなたは下に来ている人たちとは何の関係もないのね?」

「いいえ、関係あります。武官の磁白として、彼らを見張るように命じられておりました」

「はい?」


 ますます分からなくなってきた。

 なんだ、この人?

 勝手に私たちを守ると決めておいて、下の男女を見張る命を受けていた?

 しかも偽りの磁白の名で?


「つまり、中嗣からの指示があったの?」

「いえ。直接ご下命をいただけましたら、それはもう私としては僥倖、身命を賭して……取り乱し、申し訳ありません。私は今、武大臣邑昌様よりの指示で動いておりますので、どうかご安心を」


 取り乱したと言ったのは、何だろう?

 落ち着いた声は、一切取り乱したようには聞こえなかったけれど?


 この人も変な人だ。この短い時間にそれだけは分かった。

 あとはもう中嗣に色々と聞かないと分からない。


 武大臣と言えば、中嗣が脅したばかりだと言っていなかったか。

 とすれば、これを恨まれて、私が狙われることも考えられようが。

 

 しかもあの男女、その武大臣の子どもたちではなかったか?

 うーん。分からないことばかりだ。


「どうかご安心ください。あなた様にはこの場に留まっていただきたく、お声を掛けに参っただけなのです」

「そのために外から二階に上がって来たの?」

「えぇ。以前、こちらの窓から通りへと降りられる姿を拝見したことが御座いましたので」


 体がすんと冷えていった。

 いつからこの男は私を探っていたのだろう。


 男の落ち着いた様子に、私の心身が怖さを覚え始めている。


「急ぎ終わらせて参りますね」

「え?待って……」

「羅生様がおられますから大事にはなりませんが、邑仙様が気になりますし。お叱りの言葉はその後にどうぞいくらでも。罰を与えてくださっても構いませんので」

「待ってよ、もう少し話を……」


 露煙とも、磁白とも名乗った男は、ぱっと窓枠から手を離すと、姿を消した。

 まさか飛び降りたわけではないだろうと身を乗り出して確認したが、すでに下の通りにもその男の姿はない。



 そのとき、一階から大きな物音が聞こえてきた。

 外が駄目なら、階段を下りるしかない。

 音を立てぬように気を付けて廊下に出て階段へと移動したら、降りるまでもなく玉翠の姿が見えた。


 あぁ、良かった。玉翠に怪我はない。




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